地域-01〜大青田・若柴・船戸


・022・☆大青田貝層(大青田:運河「柏大橋」附近)
柏市指定文化財>・今から約20〜30万年前の貝層
 大青田地区に貝の化石がでることは昔から知られています.農家はこの貝を鶏の餌に利用してきました。貝層は利根運河底より南寄り一帯に広く発達しており、東西約百五十メートル以上の範囲です。
 昭和十二年に調査され、「大青田貝層おおあおたかいそう」と名付けられました。その後昭和38年に再調査が行われ、詳細な検討の結果、未確定種十八種を含む百七十四種類の化石が確認されました。
 貝層は上部に薄く小規模に散在する貝層と、下部に厚く堆積した大規模な貝層に分けられます。地層名は下総層群の木下層と考えられます。
 この貝層は、浅海性吹き寄せ貝層で、調査時には磯の香りが極めて強かったので、堆積当時は浅い砂泥地で潮流または波浪にあらわれる内海であったと考えられます。
 地質学・古生物学・古気象学において重要なものです。
  <平成三年二月 <柏市教育委員会


・023☆船戸のおびしゃ ・船戸(船戸会館)
柏市指定文化財
 「おびしゃ」は関東地方、特に千葉県に多く、もとは弓を的にあてることで、その年の豊穣を祈る行事でした。船戸のおびしゃは現在は的射は行われませんが、古い形態が残されており、貴重な存在となっています。
 新年に当番が交代し、氏子当番の人たちが神前の供え物から酒肴膳部の準備をし酒宴の中で「三助踊り」「三番叟さんばそう」「おかめ踊り」が演じられます。
 かつては天満宮で神事をしてから4区域の旧家4軒で順に踊りと酒宴が行われていましたが、神事・踊り・酒宴とも大正7年(1918)からは「医王寺いおうじ」で、平成6年(1994)からは「船戸会館」で行われるようになりました。
 元和年中(1620年頃)から始まり、1月20日と決められたのは天保7年(1836)からと言われています。平成6年からは1月20日直前の日曜に改められました。(公報)


・024☆船戸代官所跡 (船戸天満宮附近)
 江戸時代の市域には22の村がありました。このうち旧田中村については若柴村を除く7ケ村のほとんどが本多候の支配地で、船戸に代官所が置かれました。記録では「元和4年(1618)船戸村字久保内屋敷6畝2歩の地に船戸役所建つ」とあり、現在の船戸天満宮附近にあったといわれています。(公報)


・027☆聖人塚遺跡(しょうにんづかいせき)
・・・柏市の北部を東西に走る常磐自動車道の建設に伴って、昭和52年から昭和57年にかけて、財団法人千葉文化財センターによって多くの遺跡が調査されました。・・・
 <聖人塚遺跡>
 先土器時代から江戸時代にかけての人々が残した遺構(人が活動した痕跡)や遺物が見つかりました。特に先土器時代の石器や石のかけらがある程度まとまっているところが21ケ所発見され、調査の結果約3万〜1万年前のものとわかりました。(公報)
・028☆花前(はなまえ)T遺跡・船戸字花前
 船戸字花前の、利根川に面する台地上にありました。縄文時代から平安時代の集落で、住居跡からは市域ではめずらしい緑釉陶器りょくゆうとうきや銅製のひしゃく等が出土しました。(公報)

・029☆花前(はなまえ)U遺跡・船戸
 花前(はなまえ)T遺跡の南西の台地上にあり、先土器時代から平安時代の集落などが発見されました。この中でも特に注目されるのは平安時代の製鉄炉が10基も発見されたことです。このうち1基は現在、木更津市にある県立上総博物館に展示されています。(公報)


・034・☆若柴観音(若柴の交差点)
柏市文化財めぐり
若柴の観音様
 新坂東第八番札所として、正観世音菩薩が安置されています。
 縁起では、行基上人(奈良時代に活躍し、東大寺建立にも尽力した人)が遍歴の途中、この地若柴を訪れた時、突然金色の光明の中に観世音菩薩が出現しました。上人は霊木を探し観世音菩薩像を彫り、祠を建てて安置したとあります。
 江戸時代には軍事的にも普段の生活でも、馬は非常に大切にされていました。このようなことから、観音信仰が一般の人々の間にも盛になると、石碑には「馬頭観音」の名が刻まれて、街道筋に建てられたりしました。
 このお堂は、近年修築されて昔の面影が失われていますが、床を高くした入母屋造りで、流れ向拝をもつ、三間二面の小さなものです。寛政元年(一七八九年)の建築と伝えられています。また、この観音様は明治・大正時代は大変に栄え、縁日には近郷近在はもとより、遠く茨城県や埼玉県からも馬に化粧をして手綱を引く人が多く集まり、見せ物小屋などもでて大変賑わったということです。
 <平成五年六月 <柏市教育委員会

このお寺の宗旨:長覚寺>
宗名  真言宗豊山派
本尊  真言宗の本尊は普門総徳の大日如来です。
     長覚寺観音堂の本尊はその別徳の正観世音菩薩です。
祖師  宗祖  弘法大師(西紀七七四年〜八三九年)
     中興祖 興教大師(西紀一〇九五年〜一一四三年)
     派祖  専誉僧正(西紀一五三〇年〜一六〇四年)
伝承  今から千百五十年の昔、弘法大師が唐に渡り、諸仏の本祖である大日如来から嫡々相承した秘法を恵果和尚から伝承して、日本へ帰り真言宗として開祖されました。それから三百年後一宗の紀綱が漸く弛んだ時に興教大師が宗風を興隆されました。このお二人を両祖大師とあがめ、さらに五百年後に専誉僧正が大和の長谷寺を中心にこの教を弘めましたので両祖大師と共に三祖と申しあげております。
教義   一、即身成仏(この身のままで仏になること)
      二、密厳国土(この世の中を浄土にすること)
仏のような心で仏のように行い、仏のように語れば、私達の日々の生活は自ら浄らかになり、、この身のまま仏(覚者)になります。この世の中は浄土となります。この事が即身成仏であり、密厳国土であり、わが真言宗の教義であります。
総本山 大和の長谷寺(奈良県桜井市・西国三十三番所第八番)
お経  般若理趣経、般若心経、光明真言、観音経等をよみます。

新坂東第八番
たづぬれはここにも
 月のいさぎよく
つゆの玉しくわかしばの寺

       昭和五十三年一月十日  当地増田茂 建之

若柴鎮座 六所神社

軍馬慰霊碑
とつ国に征きてかへらぬいくさ馬
    もの言ぬこそいさを尊し

   <復員(中支)三十三年記念
命かけし中支那遠くはるかなり 長江の波夢にうづまく
昭和五十四年五月十五日 富沢豊 建之、石工花野井 松丸石材

若柴夜曲
・作詞 富澤豊 作曲 寺島勇 編曲 中村淳
1. わかしば恋しい 春の夜に 
     香りいとしき 野の花を
   せめてあの日の 想いでに
     君のこころにささげます
2. わかしば恋しい 夏の夜に
     16号線にぬれかすむ
   若柴観音がんかけて 
     またたく星空に君をまつ
3. わかしば恋しい 秋の夜に
     鈴虫すだく 静かな夜
   つれない夢にさそわれて
     かわいいあの娘の夢を見る
4. わかしば恋しい 冬の夜に
     森の入谷津 月さえて
   こころもぬくむ君がまつ 
     柏の若柴パラダイス

 


・101☆こんぶくろ池
柏市文化財めぐり
こんぶくろ池> 
池の形が小袋に似ていると言うので、こんぶくろ池と言われています。
いりろな伝説があるがーーー木の枝にかけられた小袋を通りかかったものが取ろうとしたら「オイテケ・オイテケ」と池の中からだれかが言った とかーーー池のウナギをとって持ち帰ってみると木の葉であった とかーーーいろいろな言い伝えがある珍しい池であります。
  <昭和五十四年三月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
こんぶくろ池
こんぶくろ池と自然
 かつて正連寺地区には緑が豊富にありました。しかし、近年の都市化に伴い開発の波が押寄せ、刻々と緑がけずられています。そんな中で、こんぶくろ池の畔にたたずむと、語り継がれている池の伝説が伝わってくるようです。
 こんぶくろ池から湧き出る水は大堀川にと合流し、手賀沼に注いでいます。今では市内唯一の手賀沼の自然水源になってしまいました。かつては小金牧(池際の野馬土手説明参照)の馬のオアシスとして、また生活用水や農業用水として人々の生活との関りを深くもっていました。
 また、池周辺にはスギ、マツ、の他イヌシデやムクノキなどの落葉樹が繁り、四季折々に、美しい花や実をつける植物もあり、池の中にはハンノキなど湿地に生息する自然性の高い植物も現存しています。
 こうした貴重な自然を大切にし、いつまでも「ふるさと柏」に残しておきたいと思います。
                   <柏市教育委員会

落葉樹の林
 ここの落葉樹林はかつての武蔵野の雑木林と同じ質のものです。雑木林は薪や炭の原料とするため20年〜30年ごとに伐採され、林床の落葉は堆肥の材料とされるように、雑木林は人々の生活に深くつながっていたのです。しかし近年では林が利用されなくなり、下草などの管理が行われなくなったためササの類が密生してヤブのようになっています。特に乾燥した所に生育するアズマネザサは他の植物が入るのを阻害します。
 図は柏の代表的な落葉樹の断面図です。高木層には、イヌシデ、クヌギ、コナラ、ケヤキ、亜高木層にはコブシ、エゴノキ、ムクノキ、低木層にはガマズミ、サワフタギ、ムラサキシキブ、コマユミなどが見られ四季それぞれに目を楽しませてくれます。

−−ー 高木層(こうぼくそう)
ーーーー 亜高木層(あこうぼくそう)
ーーーーー 低木層(ていぼくそう)
ー草本層(そうぼんそう)
                   <柏市教育委員会
弁天池

・102☆野馬土手
柏市文化財めぐり
野馬土手
 ここに南北に土手が築かれています。
徳川幕府にとって、権力の確立維持のための一つの要件として、機動性を持つこと、すなわち「軍馬」の確保が急務でした。そこで幕府は小金ケ原に馬を放牧し、軍馬の養生をはじめました。牧は野田、流山市から柏、松戸、船橋、千葉まで及び、更に成田市の先までのびる広大な原野に、「小金牧」「佐倉牧」「嶺岡牧」が経営されました。これが「房総の三牧」と言われています。
 しかしこれらの地域の全てが牧ではなく村落や農作地などがありますので、それらとを区切るため土手を築きました。これが「野馬土手」です。また「野馬除土手」とも「野馬掘」とも言われていました。その構造は、溝を掘り、その上を左右に盛って土手を築いて土手と掘りの二重構造になっているのが一般的です。
 牧の中にはいくつかの清水の池があり、このこんぶくろ池もその一つです。放牧されている馬にとっては大切な水呑場であり、オアシスとなっていたことでしょう。
  <柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会


・103☆旧陸軍東部第百五部隊営門
柏市文化財めぐり 
この門柱は昭和十三年に開設された陸軍東部第百五部隊の営門で、当時のままの位置です。柏飛行場には第五・八十七・一・十八・七十の各飛行隊が帝都防衛にあたりました。柏飛行場は松戸、成増、調布などと共に陸軍が設置したもので、昭和十九年から激しくなったB−29による空襲に対して防空戦闘にあたりました。
 柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ市内各所に軍事施設や軍需工場がありました。
 説明板の設置は埋もれていく市内の戦時下の遺跡を後世に伝えるためであり、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久平和への願いをこめて建てるものです。昭和二十年四月十日から日本最初のロケット戦闘機「秋水」が駐留しました。
<平成四年八月 <柏市教育委員会


・104☆<柏飛行場跡地

柏飛行場は昭和十年に松戸、成増、調布など共に帝都防衛の飛行場として、当時の日本陸軍が設置したものです。昭和十九年末から激しくなったB29による空襲に対して防空戦闘にあたりました。部隊ははじめに飛行機第五戦隊が立川町から移転してきました。兵員は約六百〜七百人配備されたと思われますが、戦隊の入れ替えが多く、その数は変動したようです。終戦後はアメリカ軍の日本における最大の通信所として使用されていましたが、昭和五十四年に日本に全面返還され都市公園、学校、住宅などに生まれ変わりました。
 柏市はかつて「軍都柏」と呼ばれ、十余二、花野井、大室、根戸、高田、若柴には軍事施設があり、緑ヶ丘には軍需工場がありました。
 説明板の設置は、埋もれていく市内の戦時下の遺跡を反省材料として長く後世に伝えるためであり、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、恒久平和への願いを込めたものです。<平成三年三月<柏市教育委員会


・105☆千葉県姉妹県州ウィスコンシン州の石材
姉妹県友好・FRIENDSHIP BETWEEN THE SISTER STATES
・柏の葉公園(外周道路)

 千葉県とアメリカ合衆国ウイスコンシン州は1990年5月以来、姉妹都市として友好を深めてまいりました。 こうした中、友好関係の一環として、同州特産である石材(ドロマイト石灰石)を使用することとなりました。
 ドロマイト石灰石とは、マグネシウムを含んだ耐久性のあるユニークな石材です。ドロマイト石灰石の温かみのある風味が緑豊かな柏の葉公園の景観とよく調和し、その持ち味をいかんなく発揮しております。(敷石として施工されているサビ・グレー・白混合の小舗石)
 この石材が、千葉県とウイスコンシン州の姉妹県州関係を深くしていく基礎になることを期待しています。


・106☆県立柏の葉公園・柏の葉4−1
 県立柏の葉公園はスケールは大きいし、設備も整ってきて、植えられた緑の木々も成長してきて市民の憩いの場になっている。
 ここは広大なアメリカ軍の施設・柏通信所だった。その一部が柏の葉公園になった。米軍通信所の前は第二次大戦までは十余二飛行場であった。飛行場をつくるために勤労動員された人々も東葛地域には少なくなかった。飛行場の前は明治維新で職を失った下級武士たちの開墾した土地だった。それは国の施策として行われ、初富から始まった開墾はここ十余二は十二番目の新田村だった。しかし、掘立小屋で来る日も来る日も鍬を振るう重労働に耐え切れず逃亡する者も多かったという。日本の農業は米を作れば生活できたものだが、開拓地は畑ばかりだったから苦労は計り知れない。サトウキビを作り、精糖工場をおこして失敗したが、「十余二赤」というサツマイモは良質なものができたという。明治十四年には皇大神社をまつった社が常磐道の北に残っているから、その頃になると生活もやっと落ちついたとみられる。
 十余二の新田村は、江戸時代は幕府の放牧場・小金牧のなかの高田牧だった。野馬土手が、すぐ近くのこんぶくろ池に残っている。その土地が明治初年に開墾され、戦後は米軍の通信所だった土地を払下げて柏の葉公園等の施設ができたのである。
<スポーツセンター(体育館)>、<ボート池><牧が原園(日本庭園)><茶室「松柏亭」><バラ園><緑の館><水生植物園><芝生広場><桜の広場><総合競技場(柏レイソルホームグラウンド)>・・・建設中<野球グランド><テニスコーと><プール>
・・・隣接<さわやか県民プラザ(文化施設)>など。


・107☆皇大神社・十余二飛地
<敬神 皇大神社御修復記念碑>
 此ノ伊勢原ハ明治初年ニ維新政府ノ授産事業ニヨッテ 各地ヨリ来住ノ人等ガ開拓ヲシタ土地デ 同十五年此ノ所ニ 皇大神社ヲ御鎮座祭 住民ハ朝ニ神護ヲ祈リ夕ニ感謝ノ生活ヲ続ケテ 今日ニ至リマシタ
 創建以来九十八年ニ及ビ 大正五年ヤソノ後数度ノ修理ガ行ワレマシタガ 漸ク破損甚ダシク 氏子一同協栄一心御修復泰賛会ヲ結成シ 浄財ヲ捧ゲ勤労ヲ奉仕 崇敬者モコレニ協賛 以テ社殿ヲ修復 端垣ヲ改造 石鳥居ヲ建設 境内ヲ整備シ 斉シク神威ノ弥高ヲ拝シ奉ル
 本日 遷座奉祝祭ヲ斉行シ 国ノ隆昌ト 世界ニ共存共栄ニ 氏子崇敬者ニ弥栄ト 郷土ノ発展ヲ 祈誓シ奉リ 茲ニ概要ヲ誌シテ 記念トシマス
<昭和五十四年十月十五日 <宮司 古谷金祐 謹誌


・108☆妙見神社・円福寺
<妙見神社社殿改築記念碑>
 当妙見神社の創祀は、神社明細帳に元禄九年九月十三日創立と記され、さらに明治四十二年二月五日に諏訪神社を合祀したとある。
 妙見信仰は北極星の神格化であり、北斗信仰とも習合して普及したと言われ、千葉氏の守護神である。そして、江戸時代には円福寺が妙見神社の別当寺であった。
 以来、郷土安穏、五穀豊穣、子孫の繁栄を祈りつつ、我々の先人は心の故郷、一村の象徴として崇拝の誠を捧げた。穏やかな時代の推移の中にも人々の敬神と勤労は、大青田の力強い歩みとなって発展した。
 そして此の度、神殿の老朽化を憂い、氏子百十一名(戸)が三年間に亘り基金を積立て、更に特別寄付を募って、改築の運びとなった。此処に社殿改築の竣工を記念して碑を建立する。<平成十一年十二月十一日<宮司 友野俊政 謹誌<建設委員 記名
<大青田小学校跡の碑