地域-03〜・布施・布施下
・030☆七里ケ渡しと布施河岸・布施
<柏市指定文化財>
七里ケ渡は、利根川の渡船場で、布施と戸頭とがしら(現在の取手市)の間に設けられていました。江戸幕府は、元和2年(1616)8月、この地を関所の役割を兼ねた定船場としました。
一方布施河岸は、利根川往来の船の河岸場として大きな意味を持っていました。水運陸運ともに便利な物資輸送のための中継地で、利益の大きい遠国の荷物(常陸・下野や奥州産の物資、あるいは銚子方面の鮮魚)を4軒の問屋が扱い、江戸川筋まで運びました。
享保4年(1719)3月25日、33人を乗せた渡船が川の中ほどで沈没し20人がなくなるという大事故が起きました。遺族や村民は、犠牲者の供養にと、寄附を募り水神宮様と石塔を建てました。現在、スズカケの樹の下にある石塔がこれにあたります。(公報)
<柏市文化財めぐり>
江戸時代の元和二年(一六一六)に幕府は、七里ケ渡を定船場に定めました。このころは、「藺沼いぬま」という沼でしたが、承応三年(一六五四)になって、利根川も完成しました。
幕府が江戸の防衛の意味から、利根川に橋をかけなかったこともあり、下総と常陸を結ぶ要衝ようしょうとして、この七里ケ渡は栄え、布施村には五軒の旅篭があって、宿場町的な繁栄も見られました。また享保十五年(一七三〇)に土浦ー小張ー戸頭の水戸街道の脇往還が完成すると、これを利用する者が多くなり、七里ケ渡の往来も一段と多くなったと思われます。
ここにある水神様は、享保四年(一七一九)三月に起った、渡船中の事故の犠牲者の霊をなぐさめるため、また、再びこのような事故が起きないことを願って建てられたものです。
布施河岸は七里ケ渡と同じ場所にあり、江戸時代の中ごろに全盛期を迎えたようです。東北地方・利根川下流・霞ヶ浦沿岸の荷物は、利根川をさかのぼり、関宿を迂回して、江戸に向うのが常でした。それが上流に洲ができたため、布施河岸で荷を降ろし、陸路江戸川の流山加村河岸へ荷物を運ぶことが多くなりました。主な荷物は、海産物や米、炭、酒、タバコなどでした。
明治二十三年(一八九〇)に利根運河が開通すると、利根川をさかのぼってきた船は、運河を通じて江戸川へ出るようになり、布施河岸の役目は終わりました。
<平成四年一月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
布施弁天
<房総の魅力500選>の碑 ;千葉県
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和63年1月に選定されたものです。
【 布施弁天(東海寺) 】
弘仁14年(823)、嵯賀天皇の時に紅竜山東海寺として伽藍を建立。勅願所に指定されたといわれます。関東三弁天の一つに数えられています。
本堂 総朱塗三方破風、入母屋造り
楼門 総欅(けやき)入母屋造り
鐘楼 総欅(けやき)入母屋造り
・031−1☆紅竜山東海寺本堂・布施1738
<柏市指定文化めぐり>
<紅竜山東海寺(布施弁天)本堂>
・昭和四十三年六月一日柏市指定文化財
柏市の北東、利根川を眼下に望む島状の高台にあり、浅草弁天山、江の島と共に、関東三弁天の一つに数えられています。
布施弁天縁起によると、大同二年(八〇七)七月七日の夜「紅竜が現れ島を築き」とあります。現在の亀甲状の丘が、一帯の湖沼の中に一夜にしてでき、その奇瑞きずいから信仰の場となりました。
弘仁十四年(八二三)三月、嵯賀天皇の時に紅竜山東海寺として伽藍を建立し、勅願所に指定されたといわれています。
現在の本堂は享保二年(一七一七)の創建で、正面五間、側面六間の総朱塗り、三方破風入母屋造りです。向拝こうはいに四柱を配して三区分してあるのは、正面勅使の上堂通路を区分するためです。内部、外陣の天井の鏡板には狩野探舟の筆による竜が描かれています。また内陣の天井には、本堂建設に協力した八十四名の大名の紋章が描かれています。
現在の屋根は、昭和四十六年から四十七年にかけて、厚萱から銅板へ置き替えられたものです。
<昭和六十三年二月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
・031−2☆紅竜山東海寺鐘楼・布施1738
<柏市文化財めぐり>
<紅竜山東海寺(布施弁天)鐘楼>
・昭和四十三年六月一日柏市指定文化財
鐘楼は文化十五年(一八一八)の創建で総欅けやき入母屋造り銅板葺き、全容は多宝搭型です。八角形の石積基壇の上に、円形に十二支の彫刻を配し、方位を示しています。内部の天井は格組みにし、中央には昭和三十三年鋳造の梵鐘が吊られています。
鐘楼の設計は茨城県筑波郡(現在の茨城県つくば市)矢田部の名主飯塚伊賀七があたりました。伊賀七は「からくり伊賀」といわれ、木製大時計、五角庵の他、数々の発明品を作ったと伝えられています。この鐘楼の設計図も飯塚家に現存します。
多宝搭の建築法を鐘楼に応用したもので、全国的にもきわめて珍しい建築様式とされています。<昭和六十三年二月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
・031−3☆紅竜山東海寺楼門・布施1738
<柏市文化財めぐり>
・昭和四十三年六月一日柏市指定文化財
楼門は文化七年(一八一〇)の創建で、総欅けやき入母屋造り桟さん瓦葺き、三間三戸の山門です。二階の内部中央には須弥壇すみだんを設け、釈迦如来をまつってあります。
この楼門は従来のアーチ形無柱の伝統を破って、二柱を立て、通用部分を三区分してあります。これは当寺が勅願所であったことから、本堂の四柱向拝にならい、中央部を正使が通り、両脇を副使が通るようにしたためです。
建築の中心的役割を果したのは、布施の籐十郎とうじゅうろうという大工棟梁でした。この人は、おそらく寺大工であったと思われますが、当時、このような重厚な建築のできる大工が、この地域にいたということは注目に価します。
<昭和六十三年二月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
・031−4☆八朔相撲(はっさくずもう)・布施下
八朔とは、旧暦の八月朔日さくじつ(8月1日)にあたります。この日は、農繁期で非常に忙しいのですが、村の祭りとして相撲を楽しむのは、徳川家が江戸に入城した日をいっしょに祝うということから始まったといわれています。布施弁天境内で青年たちによる素人相撲が催されていましたが、昭和36年いったん途絶えました。その後、地元有志により平成7年(1995)10月1日に復活しました。(現在は10月上旬に開催されています。)(公報)
・031−5☆弁天古墳出土物・布施下
<柏市指定文化財>
布施の弁天様で親しまれている東海寺の土地に以前から古墳のような地形があることが知られていました。平成4年(1992)の本格的な調査で、5世紀頃つくられた北向きの前方後円墳であることがわかり、埋葬施設から、石枕いしまくら・立花りっか・石製模造品・臼玉うすだま・鉄製品などの副葬品が見つかりました。石枕・立花が見つかったのは柏市では初めてのことです。(公報)
・301★あけぼの山(布施弁天の隣)
昭和45年、柏市が東海寺より買い上げて公園として整備した。
<小林一茶句碑>
布施東海寺に詣けるに、鶏どもの迹をしたひぬることの不便さに、門前の家によりて、米一合ばかり買ひて、菫、浦公英のほとりに散らしけろを、やがて仲間喧嘩をいく所にも始めたり。そのうち木末より鳩雀はらはら飛び来りて、心しずかにくらひつつ、鶏の来る時、小ばやくもとの梢に逃げ去りぬ。鳩雀は蹴合の長かれかしと思ふらん。士農工商その外さまざまの稼ひ、みなかくの通り。
米蒔くも罪ぞよ鶏がけ合うぞよ 一茶
<一茶の俳文碑>
俳諧師小林一茶は文化九年(一八一二)二月十二日に流山の秋元双樹と連れだって東海寺(布施の弁財天)に詣で、ここで次ぎのような俳文と句を詠んでいる。
「布施東海寺に詣けるに、鶏どもの迹をしたひぬることの不便さに、門前の家によりて、米一合ばかり買ひて、菫、浦公英のほとりに散らしけろを、やがて仲間喧嘩をいく所にも始めたり。そのうち木末より鳩雀はらはら飛び来りて、心しずかにくらひつつ、鶏の来る時、小ばやくもとの梢に逃げ去りぬ。鳩雀は蹴合の長かれかしと思ふらん。士農工商その外さまざまの稼ひ、みなかくの通り。
米蒔くも罪ぞよ鶏がけ合うぞよ 一茶 」
一茶五十才の時の文と句である。(一茶の句集「株番(かぶばん)」に収められている一文である。)またいっさの七番日記によると、その日(二月十二日)は雨に濡れて流山の双樹の家に帰っていることがわかる。元来この文と句は「米蒔塚・蹴合塚」などと呼ばれて来ているが、ここに「一茶の俳文碑」として建立するものである。
碑文の文体は一茶の直筆を拡大して刻入したものであって、多くの人々が協力し合って建立したものである。
<昭和六十二年五月十七日 建之
<小林一茶俳文碑建設委員会
・302★農業公園(布施弁天の隣)
市が運営する9・5アールの体験農園地区と5.5アールの農業公園地区に大きく分かれている。
<オランダ風車とチューリップ>
体験農園地区のシンボル。チョコレート色の素朴な風車小屋。4枚の大きな羽根が電気仕掛けでゆっくりとまわり遠く利根川の土手を背景にのどかな風景を演出している。
春はオランダから輸入したチューリップ畑になり、秋には可憐なコスモスで埋め尽くされる風情は必見。
農業公園地区には民俗歴史を展示する「資料館」、ピラピッド形の「温室」、山小屋風の「農産加工実習館」、「穴窯」、「親水池」、築山を配した「芝生広場」、野外アスレチックの「冒険の森」、「バーベキューガーデン」などがあり、一日ゆっくりと楽しめる。
・032☆善照寺と阿弥陀三尊・布施
<柏市指定文化財>
善照寺は市内唯一の時宗のお寺で、縁起によると乾元けんげん元年(1302)一遍上人の弟子真教上人によって開かれたといわれます。
本堂には、鎌倉時代に広く信仰された阿弥陀如来・観音菩薩・勢至せいし菩薩の善光寺式阿弥陀三尊が伝えられています。写実的で優しい表情を浮かべ、その鋳造法から14世紀初頭前後(鎌倉時代)の作とされています。(公報)
・033☆布施城と妙見社(ふせじょうとみょうけんしゃ)・布施
眼下に利根川を望む地に、布施城が築かれました。その台地は土地の人たちから「城山じょうやま」と呼ばれるようになります。おこりは相馬胤村たねむらの第4子胤久たねひさが布施氏を名のったことに由来するといわれ、土塁や空堀が残っていました。現在、相馬一族が信仰したという妙見社がひっそりとたたずんでいます。(公報)
・303☆旧高射砲第二連隊営門・根戸
<柏市指定文化財>
ここにある門柱は東方約60mの所にあったものを移設したものです。高射砲第二連隊は、昭和十三年に市川市国府台から富勢村根戸字高野台に移転してきました。隊は昭和十六年に主力が東京方面へ移り、同十八年に廃止されるまで続き、その後東部十四部隊と東部八十三部隊が進駐しました。
敷地は現在、市営住宅、富勢中学校、公的施設が多く利用されています。
柏市はかって「軍都柏」と呼ばれ、十余二,花野井、大室、高田、若柴には軍事施設がありました。これらのものは姿をかえてしまい、当時の面影を見ることは困難になっています。
本市に軍事施設があった残り少ない証拠として、また二度と再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう祈念して、営門を移設して永く保存し「恒久平和」を求め続けるものです。
<昭和六十三年十一月<柏市教育委員会