柏5地域〜・柏・桜台・戸張


・005☆ヒカリモ・桜台17−16
柏市文化財指定
 ヒカリモは、洞穴やトンネルの中にある水たまり等に発生する直径6〜7ミクロン(1ミクロンは千分の1ミリメートル)の微生物で、6月頃になると水面に浮かびます。体内にあるレンズ形をした色素体が入射光線を吸収し、その波長を変えて、黄金色の光として反射放出するので、この名があります。県内では、竹岡、佐倉に次いで第3の発生地です。(公報)
 


・006☆戸張城址・戸張(文京区立柏学園)
 眼下に手賀沼を望むこの台地は俗称「城山」と呼ばれ、相馬師常そうまもろつねの三男戸張八郎行常とばりはちろうゆきつねの子孫が居館を構えたといわれています。居館は直線連郭式という方法で作られており、2つの郭くるわ(城・とりでなどの周囲をめぐらす土や石の囲い)を持っています。その堺は土手と幅11mの空堀で区画されています。現在は東京都文京区立柏学園の敷地となっています。(公報)

・006−1★弥生式復元家屋・戸張(文京区立柏学園)
 昭和26年5月、東葛上代文化研究会が戸張城山遺跡の発掘調査で検出した竪穴住居跡を翌年4月に國學院大学の樋口清之教授、東京大学の藤島亥次郎教授の指導により、家屋として復元したものです。この住居は1辺が4.27m×4.40mの隅丸方式で、4本の屋根を支える柱の穴と家のなかほどに煮炊きの炉を設けていました。文京区立柏学園内にあります。(公報)

【戸張住居跡群・弥生式住居址】:立札
一、発 掘   昭和二十六年五月
一、復 元   昭和二十七年四月
一、指 導   國學院大学 樋口清之教授
         東京大学  藤島亥治郎教授
一、広さ等   四メートル二十七センチ×四メートル四十センチの隅丸方形
一、材料、用材 カシ、クリ、ナラの闊葉樹
          結束 藤蔓の方輪結び
          屋根 利根川付近の茅(かや)
一、想 定   七〜八名の住居に適し、夏冷(しく)、冬暖(かい)、通風採光良く、中央の炉における焚火によって床面湿度低し 

柏市文化財めぐり
【弥生式・復元家屋】
 昭和二十六年五月戸張城山台地で発掘調査をした際、発見された住居址をもとに昭和二十七年四月に家屋を復元したものであります。
 弥生時代には、この復元家屋のように隅丸方形に穴を掘り柱を四本立てて、つるで編んだ家組みに、茅をふいたようです。
 また、家の中で火を燃やし炊事や暖をとって、素焼きの皿で食事をしたと言われています。
 この復元家屋は一辺約五メートルです。
<昭和五十六年二月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会

・018☆戸張一番割遺跡(とばりいちばんわりいせき)・戸張
 手賀沼に向って突き出した台地上にある遺跡で、昭和54年(1979)から55年にかけて発掘調査をおこないました。その結
果、古墳時代の竪穴住居跡72軒と、全国でも珍しい「重圏文鏡じゅうけんもんきょう」といわれる銅鏡や銅鏃どうぞくなど多数の遺物が検出されました。現在は宅地となっています。(公報)


・019☆柏公園・柏
 手賀沼を望む台地上に柏公園があります。柏市最初の公園で、桜の名所の一つです。もとは陸軍の忠霊搭があった場所で、昭和27年(1952)から順次整備されて現在のようになりました。(公報)


・036☆呼塚河岸と常夜搭・柏下・北柏橋付近
 呼塚河岸は江戸時代も終わり頃、成田・鹿島・香取などの寺社へ向う人々の乗船場として、また、米・小麦などの産物の積み降ろし場所として賑わいました。慶応元年(1865)には柏村呼塚地区の人々を中心に常夜搭が建てられました。現在は、北柏橋付近に移されています。高さは約4mあり市内で一番高いものです。(公報)
柏市文化財めぐり
【呼塚河岸と常夜搭】
 江戸時代、この脇を流れる大堀川に河岸がありました。(現在のJR常磐線と国道六号線の間)
 成田詣や佐原、銚子方面との往来に旅人や荷物を積んだ船が横づけされた所です。 この常夜搭は元々船着場付近にあったものです。慶応元年(1865年)呼塚の人たちに近隣10ケ村の有志によって建てられたもので全高四メートル余もあり市内に残る常夜搭では最大のものです。
 呼塚河岸に着く主要な荷物は米でした。その他、小麦、材木、肥料などもあります。
 秋になると白い帆をいっぱいふくらませた小さな舟が手賀沼岸の村々から新米を積んでひっきりなしに往来していたもようです。
 この常夜搭は船の往来や旅の目印として重要な役目を果してきたのです。
<柏市教育委員会    <2002・4・19、書き取り