柏6地域〜豊四季・
・017☆木釘記念碑(きくぎきねんひ)・豊四季
高級家具や桐箱には組立ての段階で木製の釘「木釘」が使われます。豊四季地区はこの「木釘」の生産で全国の家具生産者や桐箱を作る職人に広く名を知られています。
明治時代になると廃止された小金牧の開拓をすすめました。豊四季とよしき・十余二とよふた地区にも入植者がはいりましたが、土地がやせていて農作物の収穫は期待できない状況でした。そんな中、入植者の一人北島善十郎氏が「木釘」製作の技術をとりいれ、農閑期の副業として広まりました。戦後は接着剤や洋家具の普及で需要が減り、今ではわずかな人々により生産されています。
・601☆柏神社(羽黒神社)
【柏神社鎮座の記】
遠い祖先以来天王様として親しまれてきた柏神社は 羽黒神社と八坂神社の両大神が鎮座する合祀社である。
大鳥居を包む銀杏の杜根もとの御神水にて身を清め参道を進み 拝殿本殿と上り拝すれば詣づる人をして心清まり古き歴史を今にみる
一、羽黒神社の本殿黄金堂は山形県出羽三山の羽黒山に鎮座し三神合際殿と称し、年中祭典をそこで同時に行っています。五八八年奈良時代に崇峻天皇の蜂子皇子が開いたものであり稲倉魂命(いなくらたまのみこと)・月読命(つきよみのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)が祀られています。この羽黒神社の大神々が柏の元(羽黒台にも)迎い祀られたのは一六六〇年頃だと言い伝いられ。当時小金牧一帯に流行した疾病で生き残った村人も身心共に窶れ弱々しく農作業につくことも出来なかった困り果てた部落の代表が出羽三山に向い月山・湯殿山・羽黒山と祈願し山霊を身につけ健育守護並に五穀豊穣による家運隆昌の大神々をうけ(元羽黒台に祀り)村人は昼夜崇拝し、それ以後部落には大きな不作はなかったと言い伝えられています。明治元年牧場廃止と共に様々な階層の失業者を集めて開拓村を作った為、農道の拡張等に伴い各地域の神々もある程度纏められています。明治二十一年十二月(元羽黒台にて祀られていた羽黒神社は)現在の境内に遷されたものです。明治四十年九月三日(千葉県知事宛)合祀出願し明治四十一年四月十日(元天王様)八坂社内に合祀されています。
一、八坂神社の本殿は京都府祇園町の(東山の礎に)鎮座し須戔鳴尊とその妃稲田姫命、その御子神八柱を祀る古来祇園社祇園天神と言い又牛頭ごづ天王ともゆう。この八坂神社の大神々が(元天王様として)この境内に祀られたのは一六六一年頃。江戸時代の前期だと言い伝えられています。当時流行した悪質な疫病より村人の命を救うため京都の牛頭山より(御霊会ごれをえ)が主な厄除に強い須戔鳴尊の神霊を村人の代表が苦業の上身につけこの境内に迎い祀り昼夜祈願の上厄病を祓い除けたとの言い伝えに依るもので、つい最近迄も御歩射おびしゃ等で崇敬者は祈願していたものです。今尚境内には宝永四年四月九日奉献の奉甲申の古像や又享保十六年七月奉献の牛頭天王の石燈など境内に数多く残っております。又柏市の保護樹と指定されている銀杏の巨木も今より三百年は遥かに超えているものですが明治中期頃より水戸街道の改修工事等で根を切断され又根元を踏まれ、それ以来樹の成長は止まっております。
羽黒神社と八坂神社の鎮座せし大神々の嘉年を選び 昭和四十七年五月本弊社の改築にあたり昭和四十九年四月竣工し同時に両大神を遷祀し茲に柏神社と呼称せり。
柏神社の御神徳
大山祇命(おおやまづみのみこと)・健育守護御安産、玉のようなお子様の授け神として名高い。
稲倉魂命(いなくらたまのみこと)・商売繁盛、家運隆昌の神々故、深夜の祈願者はことに多く、市内の大企業・公官庁の祈願者は積年毎に多く、大願成就の笑顔は実に輝かしい。
月読命(つきよみのみこと)・〃
須戔鳴尊・遠い昔より厄除に強い神として神威の弥高いやたかが世に広まって居ります。(交通安全祈願に強い)
稲田姫命・古来縁結びに強く又学業の神でもある故受験祈願者は積年多くなっている。
主な行事
一月
一日 元旦際 柏に住む人は地元の氏神様に初詣する日です。
一月十五日 成人の日 成人の姿を大神に報告し、大神の恵を受ける日。
二月
三日 節分際((立春前日) 年男・年女の豆撒きで。まがつびを祓い幸福に。
七月十七日
〜十八日 夏季例祭 本祭りは全国でも数少ない大神輿が渡御とぎょう。
十月十九日
〜二十日 秋季例祭 祖先より継承の御神楽をお囃子連が舞う。
十一月十五日
前後 七五三の修祓しゅうばつ
年中行事 帯祝・初宮詣・結婚式・厄除の修祓
交通安全の修祓は年中随時
<宗教法人 柏神社 社務所 (柏市柏3−2−2)0471−63−4259
602☆水戸街道の木戸
柏市文化財めぐり
・柏神社前
江戸時代、市域は小金牧といわれていた幕府直轄の馬の放牧地供給地の一部でした。この牧と村、牧と田畑を区切るのが今日でもみられる野馬土手です。
この附近には、当時の大きな野馬土手が南北にのびていました。この土手は篠篭田の赤城神社の東裏から柏一小の西側、柏駅北端を通り、羽黒神社(柏神社)附近で旧水戸街道を横ぎって名戸ヶ谷の田んぼまで続いていた。この野馬土手は、豊四季と柏の境にもなり、野馬土手から東が柏村でした。
水戸街道は大名の往来や物資の輸送など、重要な道路で人々の通行が多かったのです。馬のいる牧の中に村があり、その中を水戸街道がとおていました。このため牧と村の出入口には木戸を作り、番小屋がおかれて人の通行により馬が村内へ入ってこないようにしました。他に治安維持にも一役かって、無宿者や浪人者にも対処しました。世の中が騒然となった江戸時代の終わりごろには、人別改め=身元調査まで行われるようになりました。明治時代になって地租改正があり、番地がつくようになると、木戸のあったところが柏一番地となりました。
木戸は他に野田方面に通じる花野井木戸、船戸木戸、南柏駅附近から日光街道方面に通じる新木戸がありました。
<昭和六十一年十一月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
・柏神社前
江戸時代、市域は小金牧といわれていた幕府直轄の馬の放牧地供給地の一部でした。この牧と村、牧と田畑を区切るのが今日でもみられる野馬土手です。
この附近には、当時の大きな野馬土手が南北にのびていました。この土手は篠篭田の赤城神社の東裏から柏一小の西側、柏駅北端を通り、羽黒神社(柏神社)附近で旧水戸街道を横ぎって名戸ヶ谷の田んぼまで続いていた。この野馬土手は、豊四季と柏の境にもなり、野馬土手から東が柏村でした。
水戸街道は大名の往来や物資の輸送など、重要な道路で人々の通行が多かったのです。馬のいる牧の中に村があり、その中を水戸街道がとおていました。このため牧と村の出入口には木戸を作り、番小屋がおかれて人の通行により馬が村内へ入ってこないようにしました。他に治安維持にも一役かって、無宿者や浪人者にも対処しました。世の中が騒然となった江戸時代の終わりごろには、人別改め=身元調査まで行われるようになりました。明治時代になって地租改正があり、番地がつくようになると、木戸のあったところが柏一番地となりました。
木戸は他に野田方面に通じる花野井木戸、船戸木戸、南柏駅附近から日光街道方面に通じる新木戸がありました。
<昭和六十一年十一月<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
021☆大鳥神社の酉の市
毎年11月の酉の日には酉の市が開かれ賑わいをみせています。
603−1☆大鳥神社
・旭二丁目(香取神社と併設)
<大鳥神社 由緒と神徳>
一、御祭神 日本武尊やまとたけるのみこと
二、御創建 昭和三十七年 当地方の繁栄と火難防除ひよけの守護神として、大阪の堺市鳳に大鳥さまの総本社として語鎮座坐まします大鳥大社より御分祠ごぶんし鎮祭ちんさいされた。
三、御祭神日本武尊は古事記日本書紀にも載っています如く、御父景行天皇の命をうけられて、東国経営のため下向の帰途、焼津というところで、賊の放った火に対して、燧ひうちをもって火をうち出して向い火となし、更には剱けんをとって草を刈り、これを祓い防いだ。このことにより、火を鎮める神として又事業経営の神として尊崇そんすうされています。又尊は東国平定後都への帰途、伊勢能褒野ほのにて身を隠し給い、白鳥となって天に翔かけりて終に河内にいたり留まり給うところに祠ほこらを建つと、これが大鳥神社の起源であります。
603−2☆香取神社
・旭二丁目(大鳥神社と併設)
<香取神社 由緒>
当神社の御祭神は、経津主神ふつぬしのかみと申し上げ、明治二十二年に、豊四季の鎮守さまとして、創建されました。香取大神は、日本の建国に際して、東国経営の任にあたられた開拓の神でございまして、御本社は、下総国の一ノ宮である佐原香取に鎮座する香取神宮であります。
この豊四季は、明治のはじめ、広く各地より開拓の精神に燃えた人達が、相寄り相集って、互いに心を協せ力を一にして、牧場を墾耕たがやし、集落共同の心のよりどころとして、当神社を鎮祭おまつり、朝に祈り夕に感謝の誠を捧げつつ御神護のもと、艱難を凌いで、今日の繁栄をもたらしました。
愈々神のめぐみに感謝し、神徳の昂揚につとめると共に、郷土発展の祈誓を、新たにしたいと思います。
宮柱太敷き建てて 仕え来し
祖先等みおやの心 受け継ぎゆかん
柏市文化財めぐり
604☆<柏と詩人 八木重吉>・東葛高校の塀に沿って
詩人八木重吉は明治三十一年に東京府南多摩郡(現町田市)に生まれ、昭和二年に逝去。三十歳でした。大正十四年四月東葛飾郡中学校に英語科教諭として着任。同時に東葛飾郡千代田村柏に移住し翌年神奈川県茅ヶ崎に移るまでこの地に住居をかまえていました。四軒あった教育社宅のうち学校寄りの二軒目に住み、目の前は三万坪の原っぱだったといいます。
重吉の試作は柏市在住時が最もさかんで、この時に、処女詩集「秋の瞳」が出版され、諸雑誌にも詩を寄せるようになりました。柏の自然は重吉の心を豊かにさせ、数多くの優れた詩篇を生み出させたのせしょう。
ここにある詩碑は八木重吉の詩を愛する会(柏)、八木重吉詩碑建立委員会によって建てられたものです。<昭和六十三年十一月<柏市教育委員会
・八木重吉 詩碑
ずいぶん
ひろい原っぱだ
いっぽんのみちを
むしょうに
あるいてゆくと
こころが
うつくしくなって
ひとりごとをいうのが
うれしくなる
関連ホームページ訪問 ・
001☆今谷刑場跡
・今谷上町(南柏から酒井根行きバス)
この刑場は江戸末期から明治初期に罪人の首を斬った所といわれています。大正の頃は当時掘られた穴がわずかに形をとどめていたといわれています。刑場跡はバス停から先一帯と考えられますが、現在は商店や住宅地になっていて刑場の面影は全くありません。バス停の左斜め細道を十数メートル行くと左側の路地にに小金上町新田村の墓地があり、柏市教育委員会の説明板があります。
柏市文化財めぐり
☆今谷刑場跡
この刑場は、江戸末期から明治初期、おそらく明治十二年一月四日の梟首刑こしゅけい廃止の布告までであろうか、罪人の首を斬ったと言われていますが現在はほとんで跡形もなく、わずかに山林として一部が残っているだけであります。
古老の話によると、明治の初期に、近くに住む者で強盗を働いた男がとらわれ、ここで打ち首の刑に処せられたと言われています。
昭和四十六年十二月に現在の場所へ石碑を建立しました。
昭和四十一年四月一日に、柏市文化財になりました。
<柏市教育委員会<柏市文化財保護委員会
・605☆気象大学校・旭町7−4−81
敷地面積は59,260平方メートル、その広大な敷地の一面に、気象レーダー搭が高々とたっている。春には桜の大樹が咲き誇り、静かでめぐまれた環境にある。
気象庁や、気象台の技術者養成を目的とするこの学校は、旧運輸省の所管のもと、少数精鋭で一学年十五名、全学年合わせても六〇名しかいない。採用試験に合格し、気象大学校学生に採用されると、気象庁職員として就職したことになり、国家公務員として給与が支給される。卒業後は地方に配属され、気象、地震、火山、海洋等の観測、予報、調査、技術開発などの業務につく。
戦時中は軍事気象の重要性から大手町で中央気象技術官養成所として気象の専門軍人を養成していたが生徒数を大幅に増やし、手狭になったため軍都・柏に移設されて来たのであった。
今でも、東武野田線の車窓から四季折々のたたづまいが眺められ、落ちついた景観が心なごませてくれる。