流れ001

流山100ヶ所めぐり・1−25
(添付;碑文・立て札写し書き)
・参考資料「流山のむかし」;おの・つよし著、崙書房
・参考資料「こんにちわ流山新100ヶ所めぐり」;流山市





 1・利根運河(とねうんが)運河水辺公園
・東深井・西深井・深井新田

利根川と江戸川を結ぶ全長8.5Kmの運河である。オランダ人ムルデルの設計により明治21年着工し、同23年完成した。この運河の完成により船運業界は黄金時代を迎えたが、鉄道の発達により、その使命は終わった。<桜まつり><利根運河のいわれ=看板><利根運河碑><ムルデルの碑>

ムルデルの碑文
【A.T.L RouwenhorstMulder】
ATLムルデル(1848−1901)はオランダのライデンに生まれた。土木技師となり、来日したのは明治十二年(1879)ムルデルが三十一歳の時であった。それからおよそ十一年間、ムルデルは日本政府のお雇い外国人技師として利根川、江戸川、鬼怒川の改修や新潟港、三角港の建設計画等にあたった。明治二十三年(1890)に完成した利根運河は、わが国土木史上、屈指の大事業でムルデルが日本で手がけた最後の仕事であった。
老舗の「新川」など。


 2・深井城跡(ふかいじょうあと)不動坊
・西深井

戦国時代、小金城主高城氏の支城の一つがあった。城の範囲は西深井及び東深井の一部を含む台地一帯と考えられる。不動坊(ふどうぼう)周辺には土塁、空堀跡がある。六地蔵などの石仏がある。


 3・利根運河大師堂(とねうんがたいしどう)
・西深井(運河北側、水道管付近の土手下)
大正2年(1913)建立の弘法大師(こうぼうだいし)の八十八の霊場。利根運河の流域にある。護持会大子堂(ごじかいだいしどう)は、平成8年(1996)再建。毎年4月21日が運河大師めぐりの日になっている。

<記念碑>

運河大師八十八ヶ所再建記念碑
明治二十三年 利根運河株式会社が開通させた利根川と江戸川を結ぶ八.五キロの関東水運の大動脈となった利根運河に 大正三年 流域の住民がそれぞれ弘法大師像を安置した札所を建て 運河橋の際に教会堂を建立して 新四国八十八ヶ所運河霊場を創建 多くの巡礼が訪れる名所となりました。
 昭和十六年の大水害で 水堰が破壊され 各所で堤防も決壊 堤防の拡幅 かき上げの大改修で 堤防上にあった札所は立ち退かされて散り散りになり 運河霊場は一時 歴史から姿を消されようとしていました
 昭和六十一年 柏・野田・流山の三市の有志により 利根運河霊場再建発起人会が結成され 行方不明になっていた札所の探索を始め 平成二年円東寺に移されていた十七体の大師像を再び運河畔にお迎えする 大師堂を建立し 本日落慶法要を執り行いました
 これで新四国八十八ヶ所運河霊場は創建当初に近い形に復元されたのです 
<平成八年四月二十一日<利根運河霊場再建実行委員会
<会長 秋元大吉郎 筆

   
・写真のような祠が運河周辺に点在する。
橋を渡った工業団地内
橋を渡ったにおどり公園内


 4・葛飾早稲の地域(かつしかわせのちいき)
・西深井に表札(深井新田・平方新田・上新宿新田と、葛飾早稲の田が広がる)
古代から続く早稲米の産地。万葉の東歌(あずまうた)に葛飾早稲の歌がある。におどり公園(におどりこうえん)は、平成4年(1992)に設置。におどりは水鳥のカイツブリのことで、葛飾の枕詞(まくらことば)である。

万葉集巻十四東歌より

鳰鳥(におどり)の葛飾早稲を饗(にえ)すとも
   其の愛(かな)しきを外(と)に立てめやも

万葉集が編纂された8世紀には流山をはじめ現在の江戸川沿いの野田から市川、埼玉の一部も含めた一帯は「葛飾」と呼ばれ、早稲米を産する米どころとして知られていた。右の歌は、「葛飾の里でとれた早稲米を神に捧げ、門を閉ざして神の恩恵に感謝し、豊年を祝う晩は男女とも清浄でなくてはならないのだけれど、もし、いとしいあの人が訪ねて来たら外になど立たせておけないだろう。」という意の恋する乙女心をうたった歌である。
「におどり」とは葛飾にかかる枕詞でありカイツブリという鳥の古名である。

におどり公園

鳰鳥(におどり)の葛飾早稲を饗(にえ)すとも
   其の愛(かな)しきを外(と)に立てめやも

「におどり」は水鳥カイツブリの古名で、葛飾(今の流山周辺)の枕詞になるほど、多く生息したといわれます。「ニオドリ公園」の名は、昔から流山市になじみ深いこの鳥にちなんでつけられました。この周辺では現在でも万葉の昔をしのばせる「におどり」の姿を見ることができます。<流山市


 5・浄観寺(じょうかんじ)
・西深井

江戸時代初期創建の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は新龍山(しんりゅうざん)。本尊は薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)。境内には、入口の線刻猿田彦塔、深井小学校跡地の碑などの石造物やイチョウなどの保存樹林がある。
<十一面観音護摩供養>


 6・三社大神(さんじゃたいじん)
・西深井

江戸時代初期創建の西深井の神社。祭神は大宮比*命(おおみやひめのみこと)ら3神。平成9年改築の境内には大杉神社のほか飯綱権現像(いいつなごんげんぞう)を刻んだ秋葉塔などの石造物やケヤキ、ムクなどの保存樹木がある。
<オビシャ>


 7・安蒜家板石塔婆(あんびるけいたいしとうば)
・西深井

室町時代に建立された板石の卒塔婆(そとば)。板碑(いたひ)ともいう。昭和50年(1975)、千葉県有形文化財に指定。板石塔婆は、中世、死者の追善供養や自らの極楽往生を願って建立されたもの。墓地内立入禁止。

安蒜家板石塔婆二基  由来書き
板石塔婆いたいしとうば(板碑いたび)は鎌倉時代から戦国時代にかけて、全国各地で造られた中世の供養塔です。流山を含めた関東地方には、主に埼玉県の秩父地方で産出される緑泥片岩を扁平に加工した武蔵型むさしがた板碑と呼ばれるものが多く分布しています。安蒜家の板石塔婆二基は、鎌倉時代末期に造られた武蔵型板碑で、ともに高さ一二四センチ、幅三一センチと中型の板碑です。板面には仏や経文(阿弥陀如来キリーク・勢至サク・観音)を表す梵字や、造立年月日(元亨二年1322十二月廿三日・正和三年8月十七日*覚*)などが刻まれています。
 この二基は東葛地域の代表的な板石塔婆として位置づけられており、最均整のとれた形をしています。昭和五十五年二月二十二日に、千葉県有形文化財に指定されました。<流山市教育委員会


 8・浅間様(せんげんさま)
・西深井
江戸時代の石造物がある神社。<富士塚>

創建は不詳。富士塚(ふじづか)と江戸時代の石蔵物がある。浅間神社(本宮の祭神)は木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。富士塚は、富士山を模して築かれた塚で、明治16年(1883)建立の浅間大神の石塔などがある。


 9・旧日光街道(きゅうにっこうかいどう)・道六神
・西深井に表札

江戸時代、将軍の日光東照宮参拝の時などに大名たちが使用した日光街道の脇往還。クランク脇の道六神(どうろくじん)には、成田山と刻まれた道標がある。


10・六社神社(ろくしゃじんじゃ)
・深井新田(運河の北方)
戦国時代創建の深井新田の神社。祭神は稲倉魂命(うかのみたのみこと)ら6神。境内には、大杉神社の船形のみこしのほか、庚申塔(こうしんとう)などの石造仏やケヤキなどの保存樹木がある。


大杉神社


11・稲荷神社(いなりじんじゃ)
・平方村新田
江戸時代中期以前創建の神社。江戸川改修工事により昭和37年(1962)現在地に移転。稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみー倉稲魂命)。境内には庚申塔(こうしんとう)などの石造物がある。
<初午ビシャ>

<平方村新田自治会館>


12・東武野田線「運河駅」(うんがえき)
・東深井

明治44年(1911)に千葉県営鉄道として開通。


13・東深井古墳群(ひがしふかいこふんぐん)東深井地区公園
・東深井
古墳時代後期(6〜7世紀)に造られた有力者一族の墓。前方後円墳1基と円墳11基の群集墳。人物や馬、鶏、珍しい魚などの埴輪が出土。東深井地区公園は(ひがしふかいちくこうえん)は、昭和59年(1984)設置。

流山市「森の図書館」
古墳の森の前には静かな森の図書館があり、地域のサークル活動に利用されている。


14・水辺稲荷(すいへんいなり)
・東深井

江戸時代初期創建の東深井の稲荷神社。祭神は稲倉魂命(うかのみたまのみこと)。境内には鳥居(とりい)などの石造物がある。水辺の地名は、元禄15年(1702)の古文書にもある。
(東深井小学校の裏手南に小さな森の中にある)


15・浄信寺(じょうしんじ)
・東深井

戦国時代創建の浄土宗(じょうどしゅう)の寺院。山号は深井山(ふかいさん)。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。聖観音(しょうかんのん)は60年に一度開帳。境内には如意輪(にょいりん)観音などの石造物やイチョウなどの保存樹木がある。


16・慈眼院(じげんいん)
・東深井

戦国時代創建の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は観音山(かんのんざん)。本尊は十一面観世音(じゅういちめんかんぜおん)。境内には、六地蔵、十六歳孝養像の聖徳太子塔(しょうとくたいしとう)などの石像物や保存樹木のツバキなどがある。
<観音山慈眼院発祥の由来碑>


17・駒形神社(こまがたじんじゃ)
・東深井

応永6年(1399)に建立された神社で、祭神が誉田別尊(ほんだわけのみこと)である。石造物のほか、第二次大戦の戦没者の慰霊碑があり、源義家が奥州出陣の際立ち寄った伝説がある。


18・平方観音(ひらかたかんのん)
・平方

創建は不詳。鎌倉時代の市内最古の板碑がある観音堂。本尊は聖観音(しょうかんのん)。午(うま)歳に開帳。境内には、江戸八十八ヶ所の大師堂のほか、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)などの石造物がある。


19・オランダ様(おらんださま)・平方
・平方
 
江戸時代建立の石造の馬頭観世音(ばとうかんぜおん)。建立された元文2年(1737)、八代将軍吉宗は、オランダ人に命じてペルシャ馬28頭を購入し、小金原(小金牧)など3つの牧に分けて国内馬匹の改良に資したという。
碑文
徳川八代将軍吉宗は馬匹改良のためオランダ馬を輸入し小金牧に放牧した。このペルシャ馬のうち此の地で死んだ馬を祀ったのがこの馬頭観世音である。元文二年(1737年)の建立で古くよりオランダさまとして信仰され、またこの前にあった坂はオランダ坂と呼ばれていた。<昭和五十九年四月吉日<稿 田中則雄<海老原二一建立


20・福性寺(ふくしょうじ)・平方
・平方
江戸時代中興の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は薬法山(やくほうざん)。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。境内には、流山七福神の毘沙門天(びしゃもんてん)、六地蔵などの石造物やイチョウ、ムクロジなどの保存樹木がある。

福性寺の縁起
開創縁起は不詳。正保年間中興とす。本尊は大日如来、飛地境内は仙適坊、観音坊がある。仙適坊の本尊様は阿弥陀如来両脇侍像(高さ1m位、江戸時代の作)であったが貴重な仏像なので現在は本堂に移されていて、周辺住民の信仰を仰いでいる。明治の末期には大変栄えた弁天信仰(鎌倉八幡宮の灰で練って造られたお厨子に入った江戸時代の作)であったが、その後は面影もなく寺は荒れ果てた。
 昭和六十年流山七福神が発足し毘沙門天が境内に安置されている。七福神の起源は「仁王般若経」の「七難即滅、七福即生、万姓安楽、帝王歓喜」の語によるといわれます。毘沙門天の福徳は開運招福、七難即滅にあります。昭和六十一年より、ぼけ封じ関東三十三観音霊場第八番札所となる。
 初代中興の祖勝又俊弘 昭和十七年千葉市に生まれのち廣徳院俊教の室に入る。(父俊教は総本山長谷寺第七十九世化主) 昭和48年流山市福性寺住職となり庫裏客殿の建設 本堂の増改築を手がけ再建の礎を築き また宗務所に勤務檀家信教徒教化寺門興隆に努めた。昭和六十一年六月九日遷化世寿四十三歳。
 鐘楼堂建立の計画は中興俊弘の代からの決議であったが 俊弘遷化の為一時中断されていた。平成六年檀家信徒からの強い要望により再び建立の計画が持ち上がった。同年から計画を進め遂に平成八年念願の鐘楼堂が 檀家信徒一同の協力により建立された。またこの事業は興教大師九百年御生誕の記念とされた。
<興教大師九百年御生誕記念<中興第一世俊弘和尚十三回忌記念
<薬法山福性寺檀家信徒一同<(裏に)平成九年六月吉日(とぞ)


21・香取神社(かとりじんじゃ)
・平方
創建は不詳。江戸時代初期の石造物がある平方(ひらかた)の神社。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。境内には大杉神社のほか、板碑型の庚申塔(こうしんとう)などの石造物やシイ、ケヤキなどの保存樹木がある。

社殿新築記念碑
下総流山の北西に位置する平方は北方に利根運河が西方には清流江戸川が流れ富士を眺望する景勝の地で
  鳰鳥の葛飾早稲を饗すとも
   其の愛しきを外に立てめやも

と万葉のいにしえからうたわれている葛飾早稲発祥の地として知られ 五穀豊穣に恵まれた緑豊かな郷土となっています。この郷土の鎮守社香取神社は祭神に径津主命を祀り 古くから武運長久の神として崇められ いつしかその神威は展聞をよび近郷近在の人々から信仰をあつめました。爾来 先人崇祖をはじめ氏子崇敬者は郷土の守護神として厚敬し 今日の大きな繁栄と発展をもたらしました。郷土の氏子一同は この鎮守の御神徳を偲び報恩に感謝し 心を和にしてこれに浄財の寄付を募り 神殿の新築をみるに至りました
以後 不断の敬神と崇祖の美風を子々孫々に伝承し 平和と繁栄が調和する郷土へと承継することを 祈誓いたします。<平成元年七月吉日<流山市長 秋元大吉謹書

大杉神社


22・愛宕神社(あたごじんじゃ)
・中野久木
創建は不詳。江戸時代に遷宮の記録がある中野久木の神社。祭神は火遇突智命(かぐつちのみこと)。境内には聖観音像(しょうかんのんぞう)や釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)の庚申塔(こうしんとう)などの石造物がある。


23・江戸川台稲荷神社(えどがわだいいなりじんじゃ)
・江戸川台東
江戸時代創建の稲荷神社。稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ一倉稲魂命)。昭和34年(1959)現在地に仮安置。その後、江戸川台稲荷と改称。年中行事は5月5日の春季例祭や11月の秋季例祭など。

江戸川台稲荷神社の由来〕・平七稲荷
江戸川台稲荷神社は流山市中野久木、鈴木家により中野久木貝塚の隣接地(現在の江戸川台西四丁目辺り)に奉祀され、安政二年(西暦一八五五)二月ご神体を白河石に奉じ、平七(へいしち)稲荷大明神として信仰を集めていた。
 その後ご神体を持ち去られるなどの不祥事があって見過ごすことができなくなり、昭和三十四年(西暦一九五九)江戸川台団地造成工事が始まった最初の時期に江戸川台東地域に入居された方がたの中から信心深い人びとが取敢えず工事現場の小屋に仮安置したのが初めの縁である。
 稲荷神社は全国屈指の信徒を持つ神社であることにより、いつまでも現場の小屋に放置するにしのびない、ということになり有志が相談の結果現在の場所を確保した。
 早速神域が浄められ昭和三十六年(西暦一九六一)二月六日初午の佳き日を選び仮遷座された。
 以来毎月六日を例祭日と定め、団地の方がたのご隆昌、ご安泰の祈願が続けられて来た。
 やがて社殿の基礎工事も完成し、神社の体裁もほぼ整備されたことを契機として平七稲荷大明神を江戸川台稲荷神社として改称し、祭日も毎年五月五日と十一月十五日の二回を例祭日として奉賛した。
 全体の完成は昭和五十四年(西暦一九七九)四月二十日であり、逐年境内の整備にあたって来た。
 現在は商売繁盛、交通安全、合格祈願など地域の信仰を集めている。


24・野馬除土手跡(のまよけどてあと)
・江戸川台東
江戸時代に築造、補修された土手。幕府直轄の牧で放牧された馬が、民家や田畑に入りこまないよう柵の役割を果した。江戸川台4号緑地(えどがわだいよんごうりょくち)には長さ
220mの野馬除土手跡がある。

江戸川台4号緑地


25・香取神社(かとりじんじゃ)
・青田

創建は不詳。江戸時代の石造物がある旧青田新田(あおたしんでん)の産土神(うぶすながみ)。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。昭和44年(1969)再建。境内には手児奈塔(てこなとう)、庚申塔(こうしんとう)などの石造物がある。
<大杉祭>
香取神社改築記念碑
此ノ青田新田ハ江戸時代中期ニ開発サレタ歴史ヲ有シテイマス 当神社ハコノ土地ノ鎮守トシテ郷民挙ッテ崇敬ノ誠ヲ捧ゲテ今ニ至リマシタ コノタビ寛政七年ニ再建ノ神殿漸ク荒廃ノタメ 氏子相議リ共有ノ土地ヲ整理シ 境内地九百三十四平方メートルヲ設定 浄財ノ献納ト合セテ 社殿ヲ改築 社務所ヲ新築 社頭ヲ整備シテ本日奉祝大祭ヲ斎行シ 神徳ノ弥高ヲ仰ギ洵ニ感悦ニ堪エナイトコロデアリマス 氏子一同更ニ敬神ノ 美風ヲ作興シ 国ノ隆昌ト世界ノ共存共栄トヲ祈ツテ 記念トシマス
<昭和四十五年一月十八日<宮司 古谷金祐 謹誌