流れ002
流山100ヶ所めぐり・26−50
(添付;碑文・立て札写し書き)
・参考資料「流山のむかし」;おの・つよし著、崙書房
・参考資料「こんにちわ流山新100ヶ所めぐり」;流山市
26・鏑木学校発祥の地(かぶらぎがっこうはっしょうのち)
・駒木台
明治10年(1877)、鏑木平馬(へいま)、佐内(さない)の父子が私財を投じてこの地に私立鏑木学校(八木北小学校の前身)を創立し、近郷の児童を教育した。昭和5年(1930)、鏑木佐内先生碑が建立された。
碑文;<鏑木佐内先生碑>
27・法栄寺(ほうえいじ)
・駒木台
江戸時代中興の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺院。山号は妙高山(みょうこうざん)。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。境内には、入口の日蓮塔などの石造物や保存樹木のイチョウなど。日蓮上人坐像は市指定文化財。
28・八幡神社(はちまんじんじゃ)
・駒木台
創建は不詳。江戸時代の石像仏がある旧駒木新田(こまぎしんでん)の産土神(うぶすながみ)。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)。境内には菅原道真像(すがわらみちざねぞう)を刻した天満宮などの石造物や保存樹林のサクラなど。
29・金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)
・上新宿
江戸時代創建の神社。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。境内には、金比羅塔(こんぴらとう)などの石造物やヒマラヤスギなどの保存樹木がある。年中行事は2月3日の節分など。毎月10日には縁日「朝金比羅」がある。
表札〔公共基準点〕
ここは
東経139度54分47秒
北緯 35度52分56秒
標高 20m354
この基準点は地球上の位置をあらわす
たいせつな標識です。たいせつにしましょう。
<流山市
30・上新宿貝塚(かみしんじゅくかいづか)
・上新宿
海岸近くの台地に住んでいた人たちが残した縄文時代の貝殻の塚。市内最大の馬蹄形(ばていけい)貝塚。マガキ(南側)やヤマトシジミ(北側)が主体の貝層の中からシカなどの動物の骨や人骨、土偶、耳飾などが出土。
31・八坂神社(やさかじんじゃ)
・上新宿
創建は不詳。江戸時代の石造物がある上新宿(かみしんじゅく)の神社。祭神は素盞命(すさのおのみこと)。境内には、庚申塔(こうしんとう)や熊野塔(くまのとう)などの石造物がある。
32・香取神社(かとりじんじゃ)
・北小屋
江戸時代に桐明神(きりみょうじん)を香取神社と改めた神社。中世桐ヶ谷郷の総鎮守。祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)。源頼朝の使者が戦勝祈願したという(桐ヶ谷伝説)。境内には随神(ずいじん)門や神木などがある。
〔桐ヶ谷伝説〕・参考資料「流山のむかし」;おの・つよし著、崙書房。
鎌倉に幕府を開いた頼朝は、奥州・平泉で抵抗していた藤原泰衡を討つため文治五年(1189)七月、奥州征伐に出陣した。このとき九郎盛長を使者として桐ヶ谷明神につかわし戦勝祈願をした。祈願がおわって帰ろうとしたとき、夏の木の葉が繁る季節だというのに、境内にあった桐の木の葉が枯れてハラハラと落ちてきた。九郎盛長は、これを指差して、「あれを見よ、北の葉が落ちるのは、まこと吉兆。泰衡やぶれたり。わが軍の大勝利じゃ」九郎盛長の指差す方を見ると、繁っている桐の木の北側の枝の葉だけが落ちていた。戦は十月に奥州より凱旋し、このとき、戦勝のお礼に社殿を造営寄進したと伝えられる。
・・・このことがあってから、桐ヶ谷郷の人たちは神霊を恐れて桐の下駄をはかなくなった、とぞ。
33・弁天様(べんてんさま)
・南
創建は不詳。江戸時代の古文書に記載がある弁才天(べんざいてん)の祠。平成4年(1992)現在地に移転の弁財天はインドの河川の女神で、後世、弁財天の名で七福神にも入っている。また、水神とも習合(しゅうごう)している。
34・神明神社(しんめいじんじゃ)
・南
創建は不詳。江戸時代の石造物がある「南」の神社。祭神は天照皇大神(あまてらすおおものかみ)ら3神。境内には青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれた庚申塔(こうしんとう)などの石造物やケヤキなどの保存樹木がある。
35・西善院(さいぜんいん)
・南
江戸時代香取神社の別当だった真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は桐正山(とうしょうさん)。本尊は十一面観世音(じゅういちめんかんぜおん)。境内には如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)が刻まれた十九夜塔などの石造物がある。
36・上貝塚貝塚(かみかいづかかいづか)
・上貝塚
縄文時代後期を中心に形成された馬蹄形(ばていけい)貝塚。ハマグリ(後期後半以降)が主体の貝層の中からシカ、イノシシ、へビ、魚などの動物の骨が出土している。
37・西栄寺(さいえいじ)
・桐ヶ谷
江戸時代、御朱印の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は桐谷山(きりがやさん)。本尊は無量寿如来(むりょうじゅにょらい)、御前立像は不動明王(ふどうみょうおう)。境内には琵琶山観音堂(4月18日開帳)、流山七福神の福禄寿などがある。
<無量寿院御詠歌>
わがこころ
ささげあおぐや きりがやの
むりょうじゅもんに
きよきのりかぜ
平成六年十一月三日 大僧正 秀澄代
奉納 西栄寺詠歌講
奉納 小杉孝之石材店
〔流山市教育委員会〕
<観音菩薩立像>(西栄寺)
・流山市指定有形文化財第七号
像高一五九・五センチメートル、等身大の立像。ヒノキ材寄木造。ことは下花にあった旧西福寺境内の観音像に安置され地名から「琵琶首観音」とよばれていた。髻まげの差し込み部の墨書から、天文八年(一九三九)につくられたことが知れる。
<阿弥陀如来坐像>(西栄寺)
・流山市指定有形文化財第八号
現在の西栄寺の地にあった旧西円寺の本尊。珍しく桐材でつくられている。像内の墨書銘から、天平十二年(一五八四)をくだらぬ頃の作品と知られ、ゆったりした体つきや衣服紋の流れに室町時代末の傾向がうかがえる。
<絹本著色釈迦十六善神像付外箱及び版本大般若経>(西栄寺)
・流山市指定有形文化財第二十六号
釈迦十六善神像しゃかじゅうろくぜんしんぞうは、釈迦如来を本尊とし諸菩薩、大般若経を守護する十六善神像を描いたものである。桐製外箱には宝歴七年(一七五七)に描かれ、綿貫わたぬき宇衛門うえもんが寄進したと記されている。
・福禄寿・招福安泰
38・神明宮(しんめいぐう)
・下花輪
創建は不詳。江戸時代の石造物がある下花輪(しもはなわ)の神明神社。祭神は大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)。境内には、板碑型の十九夜塔(じゅうきゅうやとう)、庚申塔(こうしんとう)などの石造物がある。
昼間でも霊気漂う雰囲気がある。
39・白狐神社(びゃっこいなり)
・下花輪
創建は不詳。明治時代初期の記録がある稲荷神社。稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまかみー倉稲魂命)。平成7年(1995)稲荷堂新築の境内には、鳥居(とりい)などの石造物や保存樹木のケヤキがある。
40・花輪城址(はなわじょうあと)<花輪城址公園>
・下花輪
戦国時代、小金城主高城氏に属した城の一つ。空堀跡、犬走り跡が確認されたほかに、中・近世の陶磁類、古銭、板碑などが出土。花輪城址公園(はなわじょうしこうえん)は、平成元年(1989)設置。
<花輪はなわ城跡。琵琶びわくび首観音堂跡>
花輪城は、市内では深井城、前ヶ崎城、名都借なつかり城とともに存在した、中世城郭の一つです。十六世紀戦国期に松戸市小金の大谷口城を本拠地として、周辺一帯を支配していた高城たかぎ氏に属する城でした。北を除く三法を急な斜面に囲まれた細長い台地は、天然の要害ようがいといえます。発掘調査により、台地を東西に区切る深さ三メートルの空堀と土橋が発見され、二つ以上の郭くるわが連続する城郭形態(直線蓮郭式)の一部が明らかになりました。花輪城は高城氏が滅亡した十六世紀末には、その役割を終えたと考えられています。
「琵琶首観音堂」は、かつて県道付近に本堂があった真言宗西福寺境内の観音堂です。解体前に行われた調査によれば、十七世紀前半の建築様式を持つものであることがわかりました。茅栢葦ながらも三間堂であり、その規模や内部の装飾は当地の経済性の高さを推測させるものです。地域の信仰を集めた本尊は、「朝寝坊の観音」と呼ばれる等身大の観世音菩薩立像(天文八年銘一五三九)で、現在は市内桐ヶ谷の西栄寺に安置されています。公園内は保存整備された、花輪城の空堀と観音堂の基壇きだんが、当地の長い歴史を物語っています。<流山市
<琵琶山観音奉祀之跡也>
本尊聖観世音御尊像は西円寺西福寺両山合寺建立の桐谷山西栄寺境内に造営泰遷す
<現住職 透澄 識 <維持昭和五十五年三月廿九日 <透純 謹書
<琵琶首観音堂参道石段>
<朝寝坊観音の伝説>おの・つよし著「流山のむかし」参照
伝松と平六の二人は、願い事やお祈りすることのない者でしたが、ほかの村人よりよくお参りしていました。この二人が観音さまにお参りする目的はほかにありました。それは、観音さまのお供え物でした。お供えしてあるご飯やだんごをつまんでは口の中に運んでいたのです。「今日はお供えが少なかったなあ」「近頃は村ン者もケチになったなあ」二人は文句をいいながら、月明かりの琵琶山を下りていきました。
その翌日、村で働き者といわれている吾作さんがお参りにきました。吾作さんは、ゆうべ結婚したばかりで嫁のお米さんと、重箱と一升徳利を供えてゆきました。翌日このすごいご馳走にありついた伝松と平六は観音さまに手を合わせることも忘れて宴会を始めてしまいました。いつしか二人は腰をふりながら、足をふらつかせて即興で面白おかしく踊りはじめました。だまって見ていた観音さまもついつりこまれて酒と踊りに加わる始末でした。
コケコッコーの一番鶏に、観音様ははっと気がついて天上会議にすっ飛んでゆきました。伝松と平六が目を覚ますと観音さまがいないではありませんか。二人は大急ぎで村人に知らせにゆきました。村人が駆けつけてみると、何とちゃんと観音さまはいらっしゃる。二人は村人の笑い者になってしまいました。「本とにいなかったのに」平六がなんの気なしに観音さまの足元を見ると、台座と観音さまがホンのチョッピリずれていました。「やっぱり観音さまはホンとに踊ったんだ!」
それから伝松と平六は心をいれかえて働くようになり、観音さまのうわさはひろまって、親しみをこめて”朝寝ぼうの観音さま”と呼ばれるようになりました。
〔花輪城址公園〕
41・茂侶神社(もろじんじゃ)
・三輪野山
平安時代の神名帳にある神社。式内社(しきないしゃ)。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)。境内には、大国主の像(おおくにぬしのぞう)や万葉歌碑(まんようかひ)などの石造物がある。1月のヂンカラ餅神事は、市指定無形民族文化財。
<札>
延喜式神名帳(平安初期に作られた法令集)にのっている式内社で大和国城山郡三輪野山(奈良県)の麓に祭礼し大物主命の分霊を祈る。毎年一月八日の新年祭に八升の鏡餅を神前に供えて之を氏子へ分割する「ヂンガラ餅」の神事がある。<茂侶神社(三輪野山)
<茂侶神社ヂンガラ餅行事(茂侶神社)>
・流山市無形民族文化財第二号
茂侶神社は大物主命を祀り、平安時代初期の書物「延喜式」にその名を記された神社であると考えられている。
毎月一月八日(最近は最寄の日曜日)三輪野山地区のオビシャが行われる。神前には八升の御神酒、八升の餅、八種類の野菜の煮物が備えられる。祭典、トウ渡し(年番に引継ぎ)、直会の後若衆が大きな供餅をちぎりあい、奪いあう「餅取り」を行う。行事はかつては近郷から若衆が集まり裸で餅を奪いあうもので、奇祭とよばれていた。餅の割れ方でその年の作柄を占ったち言れれる。<流山市教育委員会
<万葉歌碑>
にほとりの葛飾早稲をにえすとも
その愛しきを外の立てめやも
万葉集巻十四東歌三三八四番
<明治天皇御製 歌碑>
かぎりなき世にのこさむと国の為
たふれし人の名をぞとどむる
平成十二年春謹而建之
42・天神社(てんじんじゃ)
・大畔おおぐろ
江戸時代創建の大畔(おおぐろ)の神社。祭神は菅原道真公(すがわらみちざねこう)。境内には庚申塔(こうしんとう)、燈篭(とうろう)などの石造物や、シイ、ケヤキなどの保存樹木がある。
<「梅の図」絵馬>・流山市指定有形民俗文化財第五号
天神社は学問の神様とされている菅原道真をまつっており、道真が親しんだ梅がシンボルとなっている。この絵馬は板に直接梅を描いており、かつては白い花が満開であったと推察されるが、今は剥落している。たて八〇・五センチメートル横一五二・〇センチメートルと大形で額などとともにいわゆる大絵馬に分類されるが、上辺が山形につくられる各辺に縁があるなど、いかにも絵馬というかたちをしている。文化十五年(一八一八)、福富宗直の門弟四〇名が奉納したことがわかる貴重な例である。おそらく学問を志す人たちの奉納と思われる。<流山市教育委員会
<社殿改築記念之碑>
古代の遺跡の多い流山市周辺特に上貝塚の貝殻畑、又上新宿、北小屋まで入江であった谷津田の奥の貝殻、畑物捨場跡等遺跡の多い新川地区の丘陵と谷津田一つ隔てた大畔、初石台地は新川の飛地の感のする。大畔邑は徳川時代 旗本、永田豊後守の祈願で如何にも古く開けた土地であるかが知る事が出来ます。その邑の鎮守天神社(嘉永六年)改築も 古い時代から鎮座したものと拝察します。以来氏子等崇敬者達は敬神の念厚く 神社と共に 活きてきました。そして部落の今日の発展をみる事が出来ました。
しかるに終戦後三十二年 平和な生活を続けられる今日 鎮守の御神徳を偲ぶにつけ氏子一同の心は 誰言うとなく 古びた神殿を見るにつけ 改築をし報恩の一端を表わすことこそ 考えてはいても果す事の出来なかった古人の意思にもそうのではないかと 一同の意見の一致をみ 此処に浄財の寄附によって改築をみました。
此の事は現代のうすれゆく敬神宗祖の美風を子孫に伝え ひいては郷土の発展と 国家の隆昌につながる事と信じ 之を祈誓し記念とします。<宮司 宮崎敬司 撰
<昭和五十三年十一月吉日<設計施工 柏市大青田鈴木亥之助<流山市下花輪 飯山芳男 書刻
43・稲荷神社(いなりじんじゃ)
・西初石四丁目
創建は不詳。江戸時代の記録がある旧大畔新田(おおぐろしんでん)の産土神(うぶすながみ)。稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみー倉稲魂命)。境内には、庚申塔(こうしんとう)や三ヶ月不動明王などの石造物があろ。
<社殿改築記念碑>
鎮守稲荷神社々殿改築ニ当リ氏子一同協恭和衷浄財ヲ献ジ 勤労ヲ奉仕シテ社殿ノ完工ト境内ノ整備ヲ終エ 本日滋ニ奉祝祭ヲ行イ神徳ノ弥高ヲ仰イデ 洵ニ感悦ニ堪エナイ時
恰モ 明治百年先賢敬神ノ美風ヲ作興シ 以テ国ノ隆昌ト郷土ノ発展ヲ祈誓シテ記念トシマス<昭和四十三年十月二十七日<宮司 古谷金祐 謹誌
44・諏訪神社(すわじんじゃ)
・駒木
平安時代創建の駒木(こまぎ)の神社。おすわ様。祭神は健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)。本殿などは市指定文化財。源義家鞍掛の松(みなもとのよしいえくらかけのまつ)の伝説などがある。毎年8月22〜23日が大祭。
<鞍掛け松の碑に沿えて>
九百年前源義家が後三年の役を終えて神恩奉謝の為に当神社に乗馬及び馬具を奉献した際に鞍を掛けた松は第一鳥居を五十メートル程前方の豊四季字鞍掛 現ライフ前の県道沿いにあった。古老の言によるとが臥龍の形をした見事な巨松であった。明治初年台風で古損そた。字名の鞍掛はこの松に由来する。
因にこの地の前の県道を境に北側は字名を姫宮というもと当社の摂社姫宮神社の境内地であった。 明治中頃神社は当境内内に遷された。<平成五年記 社務所
掲示<諏訪の宮>
「駒木のお諏訪さま」という名で親しまれている。当神社は、平成十八年には御鎮座、壱千二百年を迎えます。 思えば、平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、更に明治、大正、昭和、平成と長い年月を、広く世の人人は、政治、道義、人倫、品性、生活、希望のよりどころとして、神威を畏み、崇び敬い、加護を拝して、中今の今日に至った。清雅きよらかにして常若、簡靖しずかにして厳恭おごそかな真秀良場まほらばなす神奈備かんなびにそぞろ詣れば、おのずから、愈愈国の隆昌と世界の共存共栄と、吾が祈りと誓いを捧げ奉る
このわが諏訪の大みやしろ、永久にこそあらめ(とぞ。)
<蕪村碑>
道問へば大根曳いて教えけり 蕪村
この句は蕪村がこの里近くで作ったと伝えられています。そしてこの句が神社に献額されています。そうすると蕪村が、初冬の頃畑で大根ぬきをしているお百姓さんに「おすわさまはどちらですか」と問いかけたら、その人はふり向き乍ら「あちらですよ」と教えられたときの句とも考えられます。
45・成顕寺(じょうけんじ)
・駒木
鎌倉時代創建の神仏習合の日蓮宗(にちれんしゅう)。本尊は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。本堂の左半分は諏訪霊像を祀る竜王堂。境内には人形供養の碑、流山七福神の弁財天像などがある。
<人形供養の碑>
<明治天皇御製 歌碑>
かぎりなき世にのこさむと国の為
たふれし人の名をぞとどむる
<平成十二年 春 <謹而建之
<竜王堂のいわれ>・参考資料「流山のむかし」;おの・つよし著、崙書房
大同年間(806から810)という昔、駒木の大沼に住んでいた龍が、毎年収穫期になると大風を起こし、大雨を降らせて農民を困らせていました。このとき弘法大師の高弟の桂伝阿闍梨が念仏をとなえ、数珠を繰り一心に祈りを捧げますと、荒れ狂っていた大龍は次第に鎮まり、沼の奥に入って静かになりました。桂伝師は沼のほとりにお堂を建て、真言宗金胎山道成寺と名付け、大龍を風早明神としておまつりしました。その後は大風も大雨もなく、村人は平穏に暮らしました。
・弁財天・知恵倍増
46・オランダ観音(おらんだかんのん)
・東初石五丁目
<十太夫の路地裏にひっそりと>
江戸時代(徳川四代将軍家綱のころ)建立の馬頭観世音(ばとうかんぜおん)の石塔。
幕府がオランダを通じて得た洋馬(ペルシャ馬)をこの(十太夫という)地に放牧したが、風土になじまず不慮の死を迎えた。村人はそれを哀れみ祠を建て、オランダ観音と呼び霊を慰めたという。
〔由来書き〕
徳川幕府は早くから馬匹改良のため、オランダ経由で、大きくて力強く美しいペルシャ馬を輸入した。四代将軍家綱の頃、小金牧に放されたペルシャ馬は、日本馬となじめず、気候環境の変化も手伝い暴れまわったので、ついに狙撃され、傷を負い、十太夫新田の沢に辿りつき、水を飲みながら息絶えたと伝えられている。後年、里人がこれを憐れんでオランダ観音として祀った。<流山市観光教会
47・熊野神社(くまのじんじゃ)
・東初石三丁目
江戸中期創建の旧十太夫新田(じゅうだゆうしんでん)などの産土神(うぶすながみ)。祭神は熊野大神(くまのたいじん)。境内には、不動明王(ふどうみょうおう)、庚申塔(こうしんとう)などの石造物や保存樹木のさくらなどがある。
〔熊野神社由緒〕一部漢字をカタカナ表記した。
一、御創建は、明治年間より、千葉県知事保管の、神社明細帳に不詳と記されているが、江戸時代中期の古文書に、十太夫新田の地名が見え、その頃鎮座と古伝にあり。
一、御祭神は、熊野夫須美大神(イザナギ尊)、家津美御子大神(スサノオ尊)、熊野速玉大神にましまし、総称して、熊野大神と称(タタ)え奉る。
一、御神徳は、白河法皇をはじめ、皇室の崇敬あつく、又蟻(アリ)の熊野詣で知られる如く、衆庶の信仰をあつめ、当地鎮座の後も、氏子はもとより広く崇敬者から、家内安全、身体健全、学業成就、攘災招福など神徳を仰いで今日にいたる。尚当社殿は昭和五十一年の完工であります。
<天皇陛下御即位六十年を奉祝して建之<昭和六十一年十月吉日 氏子中
48・天形星神社(てんぎょうせいじんじゃ)
・長崎二
江戸時代初期創建の野々下と長崎の氏神様。祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)と石見大明神(いわみだいみょうじん)。境内には第六天(だいろくてん)、道祖神(どうそじん)などの石造物やスギ、カヤの保存樹木がある。
敬神・<神殿改築記念の碑>
長崎、野々下の地は、戦国期には既に集落を成していたことが、当時の古文書によって知られます。 天形星神社は、千葉県知事保管の神社台帳に、御祭神は天照皇大神の弟神にまします素戔鳴尊。 創建は寛文二年(一六六二)と載っています。
尚御祭神は日本書紀によれば、出雲国簸川上流にて八岐大蛇を屠り、その尾より都牟刈太刀(一に天叢雲剱、後に草薙剱)を得、天照皇大神に献り、又「八雲起つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」とよませ給える御歌は即ち短歌の起源と称せられる。 このたび氏子一同、従来の神殿の荒廃を畏れて、協恭改築の議を決し、境外の石見社を境内に奉遷して、その跡地を譲渡、氏子又浄財を奉献し、合わせて資となし。本殿、弊殿、拝殿計二十坪及び石見社を、台湾檜にて流れ造り銅板葺を以て改築、調度を設け、鳥居を一基は移し二基を建立、燈籠を配し、狛犬を据え、御手洗舎を建設、参道に石畳を敷き、境内は樹木を植え且つあまねく整備、斯くして全計画を竣工。
本日滋に奉祝大祭を斎行、神威の弥高を拝し、国の隆昌と世界の共存共栄、並に氏子崇敬者の弥栄を祈って記念とします。
<昭和六十三年四月吉日<宮司 古谷金祐 謹誌
<石見社の由来>
「いわみさま」は寛政年間、徳川幕府の房総三牧の野間方総取締まりをされた旗本石見守をお祀りしたお宮です。長崎、野々下の両村は三牧に一つ小金牧の野付の村として隣接した牧内に野間入り新田を開拓するこたは多年の願いでした。この願望を認めてくれたのが石見守で寛政六年のことでした。この新田を原新田と呼びました。林畑です。この新田には秣の育成、松、杉、楢等の植林がなされ、薪、炭の生産も成果を上げ豊かな村となrました。 村民一同、石見守の人徳のお陰と感謝の念を深めました。報恩の一念から文化九年には「石見大明神」の石碑を建て、明治初年にはこの碑を御神体として長崎一丁目七四二番地に境内を定め、社を設け、鳥居を建てて代々祭祀を続けて参りました。 昭和六十二年七月十五日天形星神社境内に造営竣工された新社殿に遷座されました。
<昭和六十三年四月吉日 根本正夫 謹記
49・金乗院(こんじょういん)
・長崎一
江戸時代初期創建の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は天星山(てんしょうざん)。本尊は不動明王(ふどうみょうおう)。境内には、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれている庚申塔(こうしんとう)や六地蔵(ろくじぞう)などの石造物がある。
(真言宗豊山派・天星山金乗院 本寺 光明院 пi58)0176
50・トーテムポール(総合運動公園)
・野々下一・前平井・後平井・古間木・
’91流山トーテムポール国際大会(平成3年)を記念して、地上21mの日本一のトーテムポールなど87基を設置。総合運動公園は昭和52(1997)年設置l。
流山市総合運動公園は市民の健康増進と憩いの中の中心的な役割をになう公園として計画され、17.9haの敷地内に体育館・野球場・テニスコート等、各種スポーツ施設が配置されています。
又、これらのスポーツ施設の外に、ミニアスレチックコース、池・湿性植物園・ピクニック広場等、多様に施設が織り込まれ、豊かな緑を満喫しながらくつろぎのひとときも過ごせます。