流れ003

流山100ヶ所めぐり・51−75
(添付;碑文・立て札写し書き)
・参考資料「流山のむかし」;おの・つよし著、崙書房
・参考資料「こんにちわ流山新100ヶ所めぐり」;流山市





51・浄蓮寺(じょうれんじ) 
・野々下一丁目

江戸時代初期創建の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺院。山号は理性山(りしょうざん)。大曼荼羅(だいまんだら)本尊の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)。浄蓮寺小絵馬は市指定文化財。絵馬の民話がある。境内には、題目塔などの石造物がある。
<眼病平癒>
<小絵馬>


52・円東寺(えんとうじ)
・市野谷
江戸時代初期建設の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。本尊は大日如来(だいにちにょらい)。山号は延命山(えんめいさん)。境内には、六地蔵、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)の十九夜塔などの石造物やイチョウなどの保存樹木がある。
<六地蔵><如意輪観音>

圓東寺本堂再建墓地整理記念碑
当寺寺号を圓東寺と称す 寺暦をひもとくとき 遠く室町時代の開創と推定されるも 資料散逸して詳らかならず 歴代住職法灯を守って寺門興隆を志すも 永く無住の時代続きて寺門荒廃顕著なり 大正三年故ありて新川村東深井森田繁男氏に寺領が悉く所有権移転となる 壇信徒志を同じくして寺領の返還の運動をつづけ後年森田木三郎氏の絶大なる誠意によりて無條件の返還が実現するに至れり ここを以って壇信徒寺門再興のため奮起
昭和四十六年老朽化著しき旧本堂の再建を志すところとなし 主なる再建資金は天神社土地の処分金参百萬円を基礎とするも壇信徒奉仕によりて 本堂再建のため協力し昭和四十六年八月十日落慶に至れり 次いで壇信徒寺門環境整備のため墓地区画整理事業を志す 昭和五十年区画整理実行委員会を組織し種々協議を整え三月着さす その間区画整理資金は檀信徒の寄附金を基とし不足分は勤労奉仕を以ってこれを補うところなり 工期一年有余壇信徒一丸となって之を推進し事業を完成せしめ併せて無縁塚 萬霊塔も竣さし寺観を一新するに至れり ここに圓東寺再建事業の完成を壇信徒の努力をたたえこの地を選んで記念碑を建立するものなり
<昭和五十年四月吉日<

市野谷の森

都心から二十五キロの千葉県流山のほぼ中央に、絶滅の危機にあるオオタカのすむ森がある。広さ五十ヘクタールのこの市野谷いちのやの森の近くを、新しい鉄道が通ることになった。秋葉原とつくばを結ぶ総延長五十八キロの常磐新線である。鉄道の建設と共に、大規模な沿線開発が計画されていた。流山では、市面積の五分の一が都市開発の対象地になる。市野谷の森も丸ごと住宅地に取込まれる、ということであった。
 記者発表の後、「オオタカの保護を通して、市野谷の森とその周辺の農地などの自然を丸ごと守ろう」と地元の自然愛好家達は立ちあがった。一ヶ月後「流山自然観察の森を実現させる会」が発足する。保護活動から五年の歳月が流れた平成十年、県は市野谷の森の半分の二十五ヘクタールを残す森の基本構想を発表。翌平成十一年六月には基本計画をまとめた。市野谷の森は、自然の環境をそのまま残せる新しい種別の都市公園「都市林」として保全、県立公園化させることに決まった。
<平成十一年十二月一五日<新保國弘著オオタカの森より要旨抜粋


53・天神社(てんじんしゃ)
・市野谷
 
江戸時代初期創建の市野谷(いちのや)の神社。祭神は菅原道真公(すがわらみちざねこう)。青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれた庚申塔(こうしんとう)や市ノ谷と刻まれた力石(ちからいし)などの石造物がある。
 
オオタカの棲む市野谷の森の豊かな自然を控えている。
天皇陛下御在位六十年奉祝記念碑
本年は天皇陛下御位に即かせられて六十年の嘉年に当り 国民等しく慶賀申し上げるところでございます。此の度流山市道路拡張の為め境内地の一部を譲渡することになり この機に際して氏子一同は協恭以って浄財を捧げ又作業に労力を奉仕し 曾て取得の境内隣接地に土を盛り整え 稲荷大神 疱瘡神 日枝大神の合祭殿改築をはじめ或は参道に石を敷き、樹木を植え 社頭改まり 神威の弥高を拝し 茲に益々聖寿の萬歳を寿ぎ 国の隆昌と氏子の弥栄を祈り 碑を建てて記念とします
 <昭和六十一年十一月十日<宮司 古谷金祐 謹誌


54・本妙寺(ほんみょうじ)
・後平井
  
鎌倉時代創建の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺院。山号は頂光山(ちょうこうざん)。子宝(こだから)の祖師。大曼陀羅(だいまんだら)を本尊とし、仏像は釈尊像と日蓮聖人像。境内には保存樹木のエノキなどがある。毎月1日は法話の会。


55・天神社(てんじんしゃ)
・後平井

戦国時代創建の後平井(うしろひらい)の神社。祭神は菅原道真公(すがわらみちざねこう)。境内には、道真公一千年回忌供養塔(かいきくようとう)、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)が刻まれた庚申塔(こうじんとう)などの石造物がある。
〔2001・10・16現在常磐新線工事現場の中にあった〕


56・愛染堂;長福寺跡(あいぜんどう)
・中

戦国時代創建の旧弘誓山長福寺(ぐしょうざんちょうふくじ)のお堂。指定文化財の愛染明王座像(あいぜんみょうおうざぞう)を安置。周囲には、六地蔵(ろくじぞう)や宝篋印塔(ほうとういんとう)などの石造物がある。
<黄楊第二百号記念主宰飯田藤村子句碑

盆の月母と父とのふたつ出よ 藤村子

掲示;木造愛染明王坐像;旧長福寺
         流山市指定有形文化財第五号
愛染明王は愛をつかさどる明王で、愛欲貧染とんぜんをそのまま浄菩提心とする煩悩即菩提の本尊と考えられている。
 この愛染明王はヒノキ材の寄木造で、像高一メートルの等身大の坐像で、蓮華座の上に座り、火焔の光背をつけている。明王は化教の教えを大衆に広めるため、恐ろしい怒りをあらわした姿をしていることが多く、この像も肉親は朱色に塗られ、三つの眼、六本の手を持つ。
 製作年代や作者は不明だが、手が六本もある複雑な形を安定感よくまとめていることや、衣文をさばく彫りのみごとさ、ていねいな盛上彩色など、江戸時代彫刻の練達した技巧がうかがえる。
 地域の人々の間には、家に病人が出たとき、供えてある木製の刀を借りてゆき、全快したときには新しい刀をつくって二本返すという信仰が伝えられる。
     <流山市教育委員会

〔2001・10・16・近くには平安期の住居遺跡を発掘している現場があった〕


57・山王神社(さんのうじんじゃ)
・古間木

古間木(ふるまぎ)にある公開堂敷地内のいある神社。祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)。創建は不詳。公会堂には、千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)などが安置されている。敷地内には江戸八十八ヶ所の太子堂がある。


58・春山寺(しゅんざんじ)
・野々下一丁目

戦国時代創建の曹洞宗(そうどうしゅう)の寺院。山号は大悲山(だいひざん)。本尊は十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)。境内には、十九夜塔、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)、流山七福神の布袋尊像(ほていそんぞう)などの石造物がある。
・布袋尊・福徳円満


59・総武流山電車(流山駅)
・平和台一丁目

大正5年、町民鉄道として開通。


60・六部尊(ろくぶそん)
・加一丁目
江戸時代創建の祠。

江戸時代の六部廻国(ろくぶかいこく)の石塔。昭和4年(1767)建立。六部廻国は法華経六十六部を書き写し、日本全国六十六か国の霊場に一部すうを納めることで、この巡礼を終えた記念として建てたものと考えられる。
<奉納大乗妙典日本回国供艱塔>
 (博物館・文化会館付)


61・印旛県庁跡(市立博物館)
・加一丁目・市立博物館内
旧印旛県県庁跡(田中藩本多家下屋敷跡)

明治維新直後の数年間、流山に県庁が置かれた。県都流山ーそれほどまちは栄えていたのであった。 慶応3年(1867)10月10日、最後の将軍徳川慶喜は大政を奉還し、幕府の領地は国の直轄地となり、同4年には房州三国もその配化となった。この年の9月8日から年号も「明治」となり、一世一元の制が定められた。 流山をはじめ、周辺の村々は同年12月25日をもって「葛飾県」の管理下となる。当初葛飾県庁は東京の薬研掘やげんぼりに置かれたので「薬研掘役所」と称した。明治2年(1869)1月12日になって流山一帯に飛地領を持っていた幕臣田中藩主本多正訥が房州長尾にお国替えとなり、流山・加村坂にあった下屋敷があいたので、薬研掘役所をこの場所に移すことになった。明治4年7月14日になると廃藩置県が断行され、それまで房州三国には30余りの県があったがこれによって木更津県、印旛県、新治県の三県に統一され、この地方は印旛県葛飾郡となった。この大改革により、行徳町の徳願寺に県庁を移し、支庁を佐倉と翌5年には関宿に置いた。しかし、行徳では非常に不便であったため、印旛県庁をふたたび流山の加村坂にもどした。明治6年6月15日に印旛県と木更津県が合併して現在の千葉県が誕生、県庁は千葉に移された。 葛飾県庁のあった場所は、現在の市役所前から市立博物館の台地上であり、市立博物館開館の昭和53年6月にその記念碑が建立された。<流山市「こんにちは流山」


62・大杉神社(おおすぎじんじゃ)
・加六丁目

創建不詳。江戸時代の石造物がある神社。祭神は大物主命櫛甕玉命(おおものぬしのみことくしみかたまのみこと)。境内には、水神塔(すいじんとう)、不動明王(ふどうみょうおう)などの石造物やケヤキ、イチョウなどの保存樹木がある。


63・今上落(常夜灯)
・昭和4年、一級河川に認定された排水路。

<江戸川吐出口にある記念碑;常夜灯

今上落
この河川は、千葉県が管理している河川です。この河川での行為は河川法によって知事の許可が必要ですから左記のことについては十分注意して下さい。
(許可行為)
1、河川の流水を使用すること
2、河川の敷地に排水管等の工作物を設置すること
3、その他河川法に定めるもの
(届出行為)
一日50(M3)以上の汚水を排水する場合は土木事務所に届出て下さい
(禁止行為)
1、河川を損傷しないで下さい
2、河川敷区域内に土石、ごみ、ふん尿等の汚物又は廃棄物を捨てないで下さい
(罰則)
禁止行為に違反した者は懲役又は罰金が科せられます
  <東葛飾土木事務所


64・流山広小路(ながれやまひろこうじ)
・流山一丁目・加六丁目

明治時代前後の土蔵造りの家屋と百数十年の歴史ある老舗が続く町並み。
うなぎ「江戸屋」(0471−58−0130)


65・浅間神社(せんげんじんじゃ)
・流山一丁目

江戸時代初期創建の流山根郷の神社。祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。境内には市指定文化財の富士塚のほか、不動明王像(ふどうみょうおうぞう)などの石造物やエノキなどの保存樹木がある。
富士塚>流山市指定有形文化財第十五号

美しい富士山を、敬い畏れる人々の思いは強く、古くから信仰の対称となっていた。時に江戸時代になると、富士山を崇拝する人々が集まって「富士講」をつくり、白衣装で鈴を振り、六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えて登山し、祈願をしたりした。
 富士塚は、このような富士山をかたどって人工的に築いた塚で、信仰の対称に、また本物の富士山を遠くから拝む場所にされている。
 浅間神社の富士塚は、規模が大きく、富士山の溶岩なども用いられている。頂上に明治十九年の「富士浅間大神」の碑をはじめ、中腹には多くの石造物も建てられ、一合目、二合目、三号目、、、と頂上に至る”富士道”がつくられている。
 <流山市教育委員会


66・常与寺(じょうよじ)
・流山二丁目

鎌倉時代創建の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺院。山号は梅本山(ばいほんざん)。本尊は日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)。境内には、保存樹木のイチョウや昭和57年(1982)建立の千葉県師範学校発祥之地碑がある。
千葉県師範学校発祥之地・印旛官員共立学舎跡
明治五年「一八七二年」八月学制発布の頃、流山は下総九郡「千葉・印旛・埴生・葛飾・相馬・岡田・豊田・結城・猿島」を行政区域とする印旛県の県庁所在地であった。
 学制が発布された年の九月、時の印旛県令河瀬秀治は、いままでの教育機関ー寺小屋などを、九月限り廃止することを命じ、同時に小学校の新設を宣言した。文部省に提出された実施施工書には、「学制ニ因り教則ニ随ヒ官員協力仮ニ小学校九月二十三日開業候事、教授人ハ官員中ヨリ当分之ヲ勤メ、費用ハ官員熟議左ノ制ヲ設ケ当分之償フ。奉任官々給十分ノ一、判任官々給二十分ノ一、、、」とある。
 県令以下官員が月給の一部を醵金して、明治五年九月に開設した学校、それが「流山村常与寺」の「印旛官員共立学舎」である。
 共立学舎は学制により新説される小学校の模範であり、小学校教員になろうとする人々に、授業の内容・方法を実際に習得させる場でもあった。「伝習員」とよばれ、印旛県内各区から選出された人びとは、試験ののち十月はじめ入学、六十日間教授法を学んで各地の小学教員となった。
 まさにここ常与寺に、学制に基づくうぶ声をあげたのである。この共立学舎は、鴻ノ台学校と改称、流山村光明院に移り、ついで印旛、木更津、新治三県の統合により千葉県が誕生、県庁が千葉町に移ると、千葉学校と改称し、千葉町正妙寺に移転した。更に明治七年千葉師範学校の発足へとつながった。また常与寺はその後も流山小学校として、地域教育の中心となり明治二十二年現在地に移転するまで存続した。
 時、一九八二年、学制発布百十年に当り、流山市の教育関係者有志は、ここに記念碑を建立し、学制の原点に立ち教育の振興を願うものである。
  <昭和五十七年十一月<共立学舎記念碑設立実行委員長
紙本著色日蓮上人像(常与寺)>
・流山市指定有形文化財第二十八号
金箔地に、上段に「南無妙法蓮華経」のひげ題目、下段に日蓮上人像を描く。日蓮上人(一二二二〜一二八二)は、日蓮宗をおこし、南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって、仏の救いにあずかることができると説いた。
 箱書きから、宝暦七年(一七五七)唯心院妙持信女のため須藤喜平冶が寄進したことが知られるが、作風はそれよりも古いものを示し、貴重な江戸時代の作品である。
  <流山市教育委員会
ふぐ・川魚「柳家」0471−58−1078


67・閻魔堂(金子市之丞の墓)
・流山二丁目

江戸時代の閻魔像を祀るお堂。江戸時代の義賊金子市之丞の墓がある。
金子市之亟三千歳之墓
天保六花撰の一人金子市之は流山の酒造家の蕩児金市であるといわれている 
数奇に富んだ生涯は三千歳との相様も含め義賊として名高い。<流山市
川越蒲焼うなぎ「中政」・0471−58−1105


68・近藤勇陣屋跡(こんどういさみじんやあと)
・流山二丁目

慶応4年(1868)、元新選組局長近藤勇が陣営を敷き、ついに自主した地。近藤勇は、天保5年(1834)生まれ、文久3年(1863)2月上京。同年3月新選組を結成。慶応4年4月25日に東京板橋にて斬首。
近藤勇陣屋跡石碑>
文久三年春以来京師にあって勇名を馳せた新選組は慶応四年正月鳥羽、伏見の一戦に敗れて江戸に帰り新たに甲陽鎮撫隊を結成、同年甲州路勝沼に出陣し官軍と交戦、これまた敗れて総州流山に再挙をはかった。
 当時の流山は水陸交通の要衛、醸造業の地として知られ、各種問屋、船宿、旅籠等軒をつらね本多氏下総領管理の「加村役所」も加村台にあってその繁栄は近隣に比すべきものがなかった。
 甲陽鎮撫隊は三月二十日ごろ流山に入り、酒造家長岡屋(当初)を本陣とした。旧増しに傘下に加わる同志隊員を諸家に分宿させ、旬日にしてすでに一大勢力となっていた模様である。 
 一方官軍にあっては、その東山道先鋒隊の一部が結城方面の鎮圧に向う途次、この風聞を耳にした。直ちに香川敬三指揮する一隊流山に来攻、策を以って隊長近藤勇(大久保大和と変名)を誘い縛に就かした。時に慶応四年四月三日の夕刻であった。
 一説に、近藤は、近災の郷民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて決戦を避けたという
 老松古椎に往時を偲んで
 遺跡の石碑を建てる
   <昭和五十一年三月<流山観光教会


69・庚神様(こうじんさま)
・流山三丁目・・・キッコーマン流山工場の塀ぎわ。

江戸時代建立の石造物の庚申塔。庚申は干支(えと)の一つ。庚申の夜仏客では青面金剛(しょうめんこんごう)を、神道ではさ猿田彦(さるたひ)を祀る寝ないで徹夜する習俗があった。石塔には三猿などが刻んである。


70・本行寺(ほんぎょうじ)
・平和台五丁目

鎌倉時代創建の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺院。大曼荼羅(だいまんだら)を本尊とし、仏像は日蓮聖人像。境内には、阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)や流山人形供養発祥の地の碑などの石造物がある。
<流山人形供養発祥の地の碑>


71・光照寺(こうしょうじ)
・平和台五丁目

安土桃山時代創建の浄土宗(じょうどしゅう)の寺院。山号は加村山(かむらさん)。
本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。境内には田中藩本多家飛地領代官で後に暗殺された須藤力五郎(すどうりきごろう)の墓がある。
須藤力五郎の墓>鐘楼の前。

<山岡鉄舟君揮毫永泉下曜寵光<慶応四年八月二十一日


72・大宮神社(おおみや神社)
・平和台五丁目
鎌倉時代創建といわれる旧加村の氏神。祭神は天鈿女命(あまのうずめのみこと)。境内には、慶長12年(1607)創建の大杉神社ほか、庚申塔(こうしんとう)、地蔵(じぞう)、聖観音(しょうかんのん)などの石造物がある。

大宮神社>由来書
祭神 天鈿女命(あまのうずめのみこと)
境内 五九七五平方米(1812坪)・<三の鳥居まである>
由来 建立創設は千数百年前と思われるが詳つまびらかでない。この神は神話の中で有名な天の岩戸開きのときに、神人和楽の舞をなされた神であり、社会の和平と夫婦和命の神として古来より近郷の民の信仰が厚かった。<昭和四十年拝殿(左前方の建物)を移転し、この覆屋おおいやを再建新築する。

境内の大杉神社

神社より流山市街の展望

平和台1号公園


73・大原神社(だいばらじんじゃ)
・平和台四丁目

江戸時代創建の旧西平井村の氏神。祭神は大原権現。明治42年(1909)七郎神社を合祀。境内には青面金剛(しょうめんこんごう)が刻まれた庚申塔(こうしんとう)などの石造物や保存樹のスギなどがある。
〔鈴木病院先の平和台銀座標識を南へ折れる〕


74・寺田稲荷(てらだいなり)
・流山六丁目

江戸時代創建の稲荷神社。稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまかみー倉稲魂命)。明治8年(1875)の大火災がここで止められたともいう。同10年(1877)、地元の有志によって再建された。


75・長流寺(ちょうりゅうじ)
・流山六丁目

江戸時代初期創建の浄土宗(じょうどしゅう)の寺院。山号は宝泉山(ほうせんざん)。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。境内には千手観音を安置する観音堂のほか、馬頭が刻まれた馬頭観音や流山七福神の恵比寿像(えびすぞう)がある。
<流山七福神の恵比寿様>
・恵比寿・福寿無量