流れ004
流山100ヶ所めぐり
(添付;碑文・立て札写し書き)
・参考資料「流山のむかし」;おの・つよし著、崙書房
・参考資料「こんにちわ流山新100ヶ所めぐり」;流山市
76・一茶双樹記念館(いっさそうじゅきねんかん)
・流山六丁目
標札<小林一茶寄寓の地>
流山市指定記念物第一号
江戸時代の俳人小林一茶(一七六三〜一八二七年)は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は、最よく訪れており、その他の俳友達に俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活の糧かてを得ていた。
流山で一茶と親交が篤あつかったのは、醸造業を営み味醂の開発者のひとりと言われる、五代目秋元三左衛門さんざえもんである。三左衛門(一七五七〜一八一二年)は、双樹と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は亨和三年(一八〇三)から文化十四年(一八一七)の十五年間に、五十回以上も流山に来たことが、句帖や日記からわかっている。一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。
流山教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた流山市にとって由緒ある土地として、平成二年十二月四日付で、流山市指定記念物(史跡)第一号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最盛んであった時代を再現し展示を行う秋元本家、茶会、句会などに利用できる一茶庵がある。<流山市教育委員会
名月や流れ残りのきりぎりす 一茶
77・光明院(こうみょういん)
・流山六丁目
創建は不詳。赤城神社の別当祈願所であった真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は赤城山(あかぎさん)。本尊は不動尊(ふどうそん)。境内には、双樹と一茶の連句碑、秋元双樹の墓、大日如来像の庚申塔(こうしんとう)などがある。
<一茶双樹連句碑>
豆引きや跡は月夜に任すなり 双樹
烟らぬ家もうそ寒くして 一茶
78・赤城神社(あかぎじんじゃ)
流山の地名発祥伝説がある神社。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。元和6年(1620)再建。赤城山は標高約15m。数多くの神社のほか、波切不動尊などの石造物がある。大しめ縄づくりは市指定無形民族文化財。
標札<赤城神社の大しめ縄行事>
流山市指定無形民族文化財第三号
しめ縄は、神前や神聖な区域に懸け渡して内外を分け、不浄をさえぎるものである。赤城神社の大しめ縄は、十月十九日、二十日(現在は、第三土、日曜日)の祭礼に先立ち、神社の清掃や祝祭などが行われる十月十日(この日を宮薙みやなぎという)に氏子たちが力をあわせ作る。
稲ワラを打ち、縄をないで出来上がった大しめ縄は、長さ約十m、太さ約1.5m重量約三〇〇kgあり、近郊では屈指の大きさを誇る。
赤城神社には、上州(群馬県)の赤城山の土あるいはお札が流れついたという伝説があり、「流山」という地名の由来とも言われている。
大しめ縄は現在では祭礼の後も取り除かれずに、一年の間人々を見守っている。
<流山市教育委員会
<句碑>
越後節蔵に聞えて秋の雨 一茶
79・流山寺(りゅうざんじ)
・流山七丁目
江戸時代創建の曹洞宗(そうどうしゅう)の寺院。山号は洞雲山(どううんざん)。本尊は薬師如来(やくしにょらい)。昭和40年(1965)再建。入口に戒壇石(かいだんせき)、境内に流山七福神の大黒天像や保存樹木のマツがある。
<流山七福神・大黒天>
<戒壇石>
不許葷酒入山門
<句碑>
名月やいづれの用にたつけぶり 斗囿
・大黒天・商売繁盛
80・江戸川(流山橋)
・流山市の西側
江戸時代に開削された大河川。関宿附近で利根川から分流し東京湾へ注ぐ全長約50kmの一級河川。往時流山はこの河の水運によって栄えた。土手は河口から関宿まで全線サイクリング道路として整備され、途中は500米置きに河口からの距離が標識されている。
<流山花火大会(流山橋)>
81・流山糧秣廠跡(ながれやまりょうまつしょうあと)
・流山九丁目
大正14年〜昭和20年(1925〜1945)に陸軍馬糧倉庫があった。敷地35,260坪、建物7,597坪。業務は軍馬用の大麦等の貯蔵や干し草の加工。正式名は(りくぐんりょうまつほんしょうながれやましゅっちょうじょ)。
<裏手には千種稲荷が>
<元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について>
当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが 周囲の人家増加して火災の危険を生じたため流山に移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五、二六〇坪、建物七、五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用大麦、燕麦、高梁、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧縮工場にて四〇瓩梱包に精選加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内庁、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。
流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、茨城県下でその収集配給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。
やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し、接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返還の各軍用品)を受け入れて整備、出納する鉄道用品庫流山支庫として六年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月末日閉止され、大蔵省を経て野田醤油並びに東邦種類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。
回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど、重大任務の遂行と防空対策とで職員は殆んど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全職員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の困窮は実に甚だしく、またともすれば流言蜚語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務整理を一同一糸乱れず誠実に完遂した。その労を多としたい。
右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識と後代の参考に供する次第である
<昭和五十五年八月十五日<元陸軍糧秣本廠流山出張所長 記念碑建設委員長 瀧上浦治郎<建立者氏名裏面参照
・かねき・0471−58−0068
82・東福寺(とうふくじ)
・鰭ヶ崎
平安時代創建の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は守龍山(しゅりゅうざん)。本堂は薬師留璃光如来(やくしるりこうにょらい)。境内には金剛力士像を安置する仁王門、民話がある中門の鴨の彫刻、保存樹イチョウなどがある。
<東福寺二十一仏板碑>流山市指定有形文化財第二号
板碑は石でつくられた塔婆の一種で、板状の石材に種子しゅじなどを彫刻している。鎌倉から室町時代に多くつくられた。二十一仏は山王信仰に基づき、のち庚申信仰と結びついたといわれる。東福寺の二十一仏板碑も、日・月を配し、庚申信仰と考えられ、市内では数少ない貴重な板碑である。
<仁王門・金剛力士立像>流山市指定有形文化財第十一号
像高二メートル七十センチ、市内では最も大きい像のひとつである。向って右が目をむき口を開いた阿形あぎょう像で、左が口を閉じた吽形うんぎょう像である。裳裾もすそや天衣てんいをひるがえし、形相は金剛力士通形のもので、表現もよく伝統に従ったものである。
<「俵藤太百足退治の図」絵馬>流山市指定有形文化財第六号
俵藤太(藤原秀郷)が、琵琶湖の主の大蛇を迫害する百足を退治した伝説から、勢多せた
の唐橋からはしで女性の姿の大蛇が藤太に百足退治を頼んでいるところを美しい色彩で描いている。文久三年(一八六三)渡辺庄左衛門らが奉納している。
<以上3題解説、流山市教育委員会
<中門鴨の民話>おの・つよし著「流山のむかし」参照
境内から庫裏に向う中門は、日光東照宮造営のときの材料の一部が寄贈されて建立されたといわれ、かも居の上には左甚五郎の作と伝えられる鴨の彫り物があります。この鴨の目には太い釘が打ち込まれていて「目つぶしの鴨」といわれています。これには次ぎのような伝説があります。
いつのころからかたくさんの鴨が、毎晩田んぼに舞い降りて、黄金色に稔った稲を食い荒らしました。ある夜村人が、逃げる鴨を追いかけていったところ東福寺の森に逃げ込みました。あちらこちらと調べていたら、お寺の中門の柱に田んぼの泥が点々とつき、かも居のうえに甚五郎の鴨が休んでいました。和尚さまは、二度と田んぼの稲を荒らさないようにと目に釘を打ちました。そのときから鴨は田んぼを荒さなくなり、いまも静かにかも居の上で休んでいます。
83・千仏堂(せんぶつどう)
・鰭ヶ崎
東福寺の奥の院。千体仏を安置するお堂。創建は不詳。亮和2年(1802)再建。本尊の阿弥陀如来立像(あみだにょらいりつぞう)付千体阿弥陀如来立像は市指定文化財。境内には、六地蔵、薬師如来などの石造物がある。
84・三本松古墳(さんぼんまつこふん)
・鰭ヶ崎
〔三本松稲荷〕の目立たない小さな鳥居が目印
古墳時代に築造された有力者の墓。
全長25mの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)。三本松稲荷(さんぼんまついなり)の創建は不詳。下総国鰭崎村古塚碑(しもうさのくにひれがさきむらこづかのひ)は文政11年(1828)建立。
<鰭ヶ崎三本松古墳>
当古墳は、全長25M、前方部の幅8M、後円部径17M、最大高2.5Mの市内でも、例の少ない前方後円墳です。
古墳の墳丘からは、円筒埴輪や人物埴輪が出土しており、その研究から古墳の造られた時期は6世紀頃と考えられています。また、墳丘の形などの研究から、当古墳に埋葬された人は、市川市の法皇塚古墳、弘法寺古墳を含む国府台古墳群を築いた有力な首長層と密接な関係を持った在地の族長と考えられます。
墳丘には文政11年銘の「古冢碑」が建立されています。その内容を要約すると、「天明の飢きんの時、人々が苦しみ、古墳に埋納された財宝を掘り出し飢えをしのごうとした。それを知った当地の庄屋は、人々に古代の人の墓をあばく事をたしなめ、古墳を守りとおした」と記されている。江戸時代より周囲の人々には、当古墳が貴重な文化遺産であると認識されていたようです。<流山市教育委員会
<近くには道祖神が奉られている>三本松広場
85・本覚寺(ほんがくじ)
・西平井
南北朝時代創建の日蓮宗(にちれんしゅう)の寺院。山号は感応山(かんおうざん)。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)。昭和25年(1950)本堂を再建。境内には、入口の題目塔や中世の板石塔婆などの石造物や保存樹木がある。
<鬼子母神立像および十羅刹女立像(本覚寺)>流山市指定有形文化財第九号
鬼子母神きしぼじんは仏教説話に説かれている女神で、多くの子を産んだが他人の子を殺して食べるので、仏陀がこれをいましめ仏教に帰依きえするようになり、守護神となった。古くから出産育児の神としてまつられたが、特に日蓮宗では十羅刹女じゅうらせつにょとともに法華経の行者を擁護するとして崇拝されている。
像は高さ二十〜三十センチメートルで、彩色(後補)が美しい。台座裏の墨書銘から、天明十二年(一四八〇)に修理されたことが判り、それ以前の造立であると考えられる。また小金本土寺のものであったが本覚寺に移されたと思われる。
<流山市教育委員会
86・耳だれ地蔵(みみだれじぞう)
・思井
江戸時代初期建立の延命地蔵(えんめいじぞう)。耳だれ(目、外耳炎)治しの地蔵。堂内には参拝者がお礼としてお茶を入れて供えた竹筒や拝みの小絵馬がある。隣の伊原家には伝説忠犬小金丸の犬塚がある。〔現在立入禁止〕
(近所の発掘現場からは平安期住居跡が・2001・10現在)
<忠犬小金丸の伝説>
小金城主の高城下野守が吠えかかる犬の首を刎ねるやその首は背後の大蛇に噛みついて主を救った。高城下野守は家臣の伊原家命じに代々小金丸の墓を守らせて来たという。
87・熊野神社(くまのじんじゃ)
・思井
中世、八木郷の地名発祥伝説がある神社。祭神は櫛御気野命(くしけみのみこと)。天和元年(1681)再建。境内には伝説のシイの木ほか、板碑型の阿弥陀如来(あみだにょらい)や十九夜塔(じゅうきゅうやとう)などの石造物がある。
<八木郷の地名発祥伝説>
厄払いの為に詣でた熊野大神のお札を開けたところ一粒の椎の実が出てきた。石の鳥居のそばにまくと育った椎は根本から八本に分かれて葉を繁らせた。近郷八村は名も八木村とあらため、仲良く暮らした.。病気もなくなり、作物もよく育つようになった。
88・坂川(さかかわ)〔新横須賀橋〕
・鰭ヶ崎
江戸時代に改修開削された農業用水。天保7年(1836)、渡辺左衛門らにより松戸宿から国府台までの長さ約4.5kmの掘継工事が完成。逆川を坂川と改称。
89・雷神社(いかづちじんじゃ)
・鰭ヶ崎
創建は不詳。江戸時代再建の鰭ヶ崎の神社。祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)。境内には疱瘡神塔(ほうそうしんとう)などの石造物がある。1月20日のオビシャ行事は市指定無形民俗文化財。
<鰭ヶ崎おびしゃ行事>
「おびしゃ」という行事は関東地方各地に伝わる行事で、流山市でも各地区や神社を単位に行われている。
鰭ヶ崎では、七軒が当番となり、行事を運営する。かつては備社田という共有の水田を当番が耕作し、費用をまかなってうた。一月二十日、雷神社で祭礼を行い、そののち赤鬼と青鬼の的に向って矢を射る。その夜は「送り込み」とよばれる当番の引継ぎである。今年の当番の七軒の主人が七福神の扮装をして地区の人たちとともに宴会を催し、お囃子や神楽も行われる。そして、次年の当番の家まで万灯をかかげ花で飾った山車を引いて夜道を練り歩く、美しい行事である。<流山市教育委員会
90・流山観音寺(かんのんじ)
・木
江戸時代初期創建の真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は豊谷山(ぶこくさん)。本尊は十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)。境内には弁財天堂や地蔵菩薩、六地蔵などの石造物や、イチョウ、マキなどの保存樹木がある。冬には水仙が咲く。
91・香取神社(かとりじんじゃ)
・木
・門前には小さな桜並木が。
創建は不詳。江戸時代の石造物がある旧「木」村(きむら)の神社。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。境内には、聖観音像(しょうかんのんぞう)などを刻んだ庚申塔(こうしんとう)などの石造物やイチョウなどの保存樹木がある。
92・豊受神社(とようけじんじゃ)
・木
創建は不詳。江戸時代の石造物がある旧「木村」の神社。祭神は豊受比売命(とようけひめのみこと)。境内には庚申塔(こうしんとう)、疱瘡神塔(ほうそうしんとう)などの石造物がある。
(平成13年11月現在・現地に丸太小屋競売の告示を認める)
93・野馬除土手跡(のまよけどてあと)
(松ヶ丘緑地保全地区)
・松ヶ丘一丁目
<野馬土手>
野馬土手は、一般的には「野馬除土手」とも「野馬堀」ともいわれており、野馬が、牧外に出て民家に侵入したり、田畑の作物を荒らすのを防ぐために作られたもので、土手と堀の部分から成っております。
土手の高さは約二メートルから三メートル位、堀はV字型に掘られ深さは二メートルないし三メートル、幅は上部で約三メートルほどあり、低い土手と高い土手の二重に作られたものが多く、低い土手は馬の脚を痛めないように、なだらかになっています。
野馬の育成や増殖は自然に任せていましたが、将軍家などの乗用馬は、牧の中に土手を二重に作り、この中に放ち、保護と秀馬の増殖に努めていました。これを御用放馬囲いといい、この区切りの土手をお囲い土手といっていました。 下総地方の牧開発の歴史は遠く律令時代にさかのぼることが出来ます。
延喜式(平安時代初期につくられた法典集)には下総、高津(現多古町周辺)、本島(不明)、長州(現茨城県猿島町周辺)、浮島(現墨田区周辺)、大結(現船橋市周辺)の各馬牛牧があげられています。
時代も下がって武家時代に入ってからは軍馬の放養地、供給地として利用されました。
江戸時代の慶長十九年(一六一四)幕府はこの地に、小金佐倉牧を設けています。この頃から牧場の仕事も本格的になってきます。これらの仕事をする人々は「牧士」、「牧士見習」などといわれており、野馬土手や補込=(とっこめ=馬を追込むために作られた特別の場所)やその他、牧に関する様々な仕事をしていました。
下総台地一帯の牧は、船橋方面から野田方面にかけて広がり、土手は谷に沿い林を横切り、人家を囲うように走り、それはまるで小型の万里の長城のようです。
市内における野馬土手は、平方原新田、上新宿、十太夫、大畔、駒木台、初石、松ヶ丘、野々下,市野谷などにもみられます。<流山市教育委員会
94・香取神社(かとりじんじゃ)
・名都借
創建は不詳。江戸時代初期の石造物がある名都借(なづかり)の神社。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。境内には、馬頭観音(ばとうかんのん)、板碑型の庚申塔(こうしんとう)などの石造物やシイ、スギなどの保存樹木がある。
95・広寿寺(こうじゅじ)
・名都借
戦国時代創建の曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院。山号は長福山(ちょうふくざん)。本尊は観音菩薩(かんのんぼさつ)。境内には戒壇石(かいだんせき)、地蔵菩薩坐像などの石造物や保存樹木のイチョウがある。紫陽花(あじさい)が群生する。
<広寿寺>
山号を「長福山」と称し、観音様を本尊とする曹洞宗の寺院。永禄5年(1562)の建立といわれ、古くから厄除観音として親しまれている。境内には紫陽花が群生しみごとな庭園をつくっている。
<鐘楼堂>壇信徒総力結集の悲願<平和の鐘<時の鐘<幸運の鐘
鐘つきの心得
まず合唱 礼拝
一 法きまりによってつきます
素直にまごころでつきます
おもしろさでつくのではありません
一 やさしくつくことによって遠くまで鳴りひびきます
一 妙音を観音さまに
ご先祖さまに
一 仏さまとの会話は鐘の音です
一 鐘の音 ねがいをこめて 平和あれ
山主
96・清龍院(せいりゅういん)
・名都借
戦国時代53ヶ寺を有した真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は荒井山(こうせいざん)。本尊は不動尊(ふどうそん)。境内には金剛力士像、流山七福神の寿老人像(じゅろうじんぞう)、保存樹木のイチョウやシダレザクラなどがある。
<金剛力士堂>
<金剛力士立像(清龍院)>流山市指定有形文化財第十二号
像高各二メートル二十センチ。向って右が口を開いた阿形像、左が口を閉じた吽形うんぎょう像である。一般に仁王像ともいわれ、もと寺院の入口の仁王門内に安置されていたものと推測される。頭部はおおむね前後に矧ぎ、体部は十二〜三センチ幅の堅材を矧ぎ合せて中を空洞につくっている。江戸時代末期の作と思われる。<流山市教育委員会
<絹本著色不動明王及二重童子像(青龍院)>流山市指定有形文化財第二十三号
火焔後背を負い、瑟々座しつしつざに坐す不動明王と制多迦せいたか・矜羯羅こんがらのニ童子を描く。不動明王は両眼を大きく見開き、総髪で左側に弁髪をたらす。肉親は現状では深緑色に見える。左手に羂索けんさく、右手に宝剣(三鈷形の柄つき)を持つ。軸裏側に天保七年(一八三六)の修理銘があるが、古風な図柄と筆法の特徴から室町時代の作と考えられ、市内では数少ない作例である。<流山市教育委員会
・寿老人(無病長寿)
97・前ヶ崎城址公園(まえがさきじょうしこうえん)
・前ヶ崎
<前ヶ崎城址(まえがさきじょうあと)>
戦国時代、小金城主高城氏の支城の一つがあった。八幡山と呼ぶ台地一帯には空掘跡や土塁跡がある。前ヶ崎城址公園(まえがさきじょうしこうえん)は平成9年(1997)設置。本丸跡は広場。
<前ヶ崎城跡>
前ヶ崎城は16世紀中葉から1590(天正18)年頃まで、松戸市小金城を本拠とする高城氏の支城として機能したと考えられます。西・北・東側の三方を坂川とその支谷に囲まれた標高16mの細長い台地上に立地し、水田面とは11mの比高があります。現在地から南160mと350mの二箇所に、かつて堀切りが存在したといわれており、このことから3つの郭を直線上に配置した城と想定されます。付近には刑部郭・追手橋・馬場といった地名も伝承されていますが、城の施設と直接関連するか不明です。
公園として整備した範囲は城の中心となる主郭の部分で、西側は過去の道路建設によって失われていますが、東・南側には高さ3m〜4mの土塁が、東側の一部と南側には深さ約3mの空掘が見られます。また、南サブエントランスは以前から土塁が途切れており、この部分を郭の出入口である虎口に、その西側の最高い土塁を櫓跡とする考えもありますが、郭の構造や建物配置は明らかになっていません。<平成9年3月<流山市教育委員会
98・宝蔵院(ほうぞういん)
・前ヶ崎
創建は不詳。江戸時代初期の石造物がある真言宗(しんごんしゅう)の寺院。山号は開光山(かいこうざん)。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。境内には、巡拝塔群(弘法大師像88体)などの石造物やサルスベリなどの保存樹がある。
99・香取神社(かとりじんじゃ)
・前ヶ崎
創建は不詳。江戸時代の石造物がある前ヶ崎の神社。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。境内には板碑型の山王塔、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)の庚申塔(こうしんとう)などの石造物やシイなどの保存樹木がある。
100・香取神社(かとりじんじゃ)
・向小金2丁目
江戸時代初期創建の旧向小金新田の産土神(うぶすながみ)。祭神は径津主命(ふつぬしのみこと)。境内には一里塚碑、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)の庚申塔などの石造物やイチョウ、ムクなどの保存樹木がある。
<一里塚の碑>
この香取さまの社頭 南北に通う道は 江戸と水戸との往還 水戸街道であります むかし街道には 一理毎に土を盛塚となして 榎の木を植え生やし 旅人たちの目じるしとも 暑い陽射しには憩いの日陰を 俄かの雨には頼みの木立を それは酷しくも美しい 自然と人間との かかわりでありました
ここにも 一里塚があって 長い歳月の程を 朝に夕に 往き来の人を 送り迎えた榎の巨木は 幾とせか前に枯損して 塚は毀ち均され これは植え継がれた榎です
過ぎゆく 怱忙の歴史の彼方に そこはかとなく 忘れることの忘却を想い この碑を建てました <昭和六十二年秋<氏子総代・水代一夫・下村信一・山崎清治
下陰を さがしてよぶや 親の馬 一茶